ケンヤム

ラプラスの魔女のケンヤムのレビュー・感想・評価

ラプラスの魔女(2018年製作の映画)
4.5
三池崇史ファンとしては、男の子が広瀬すずを見てオレンジジュースをドピュとこぼすところとか、櫻井翔がトロッとそばにとろろを垂らすところとか、もう。ね。これはわかる人にしかわからなくていいんだけど、やっぱアンタ変態だよ三池さん。っていうね。もうあんま長くこういう話はしません。すいません。

本題に入ると、この映画は非日常と日常のあわいを描いた映画であると思う。
と同時に、非日常と日常は地続きであるという現実。
フィクションとリアルというのは、グラデーションだ。

そのことの怖さを象徴させているのがトヨエツ演じる甘粕だ。
あいつは自分の中でフィクションとリアルの区別が付かなくなってしまった。
あいつは、映画監督という絶対的な権力を持った孤独な権力者の代表だ。
三池崇史の分身でもある。

「この世界において、何も残さない人間など無意味だ。」
と甘粕はいうが、この言葉は映画制作について特に当てはまる。
映画というのは、無意味なものを排除する芸術だ。
全シーンを意味で埋め尽くされた映画が良い映画とされているし、そういう映画を作れる監督が良い映画監督とされている。
虚構を作り出すアーティストの狂気はそこに生まれるのだ。
嘘を本当のように見せるために、全てを意味で埋め尽くすことが創作なのだ。

実はそれを簡単に放棄してしまう、そういうことをコケにしてしまう監督というのが他ならぬ三池崇史だ。
地球を割ったり、忍たま乱太郎をとったり、目に針さして足首ちぎったり、300人斬りと宣伝したのにもかかわらず本編では1000人以上斬らせたり。
この映画は、そういうウソとホントのあわいを客観視して漂うような作品だ。

夢を見るには意味のないことこそ必要なのだ。
この映画における櫻井翔のように、日常に留まり続けること。
トヨエツやおすずや福士蒼汰のように、全能感に苦しめられ全てをコントロールしようとする、また望んでいなくてもできてしまう、その苦しさから逃げるために日常に留まり続けることが大事なのだ。
夢は寝ているときに見ればいいのだ。
三池崇史は、淡々と映画を撮るという日常を忘れない。
だから、彼は夢を見ることができるし見せることができるのだ。

この映画におけるトヨエツと櫻井翔を足したような人が三池崇史なのだろうと思う。

サスペンス映画だと思って劇場に行った人は、びっくりするだろうな。
三池崇史の作家観をいびつな構造で映画にしたような作品なのだから。
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