ケンヤム

あゝ、荒野 後篇のケンヤムのレビュー・感想・評価

あゝ、荒野 後篇(2017年製作の映画)
4.5
前編が「叫びたくなる映画」だとしたら、後編は「黙りたくなる映画」だった。

映画が終わって、劇場が明るくなった時「俺は独りだ」と思った。
だから、私たちは映画館の暗闇を求めるのだと思う。
友達と隣り合って映画を見ていたとしても、観ている間は独りぼっちだ。
常に誰とでも繋がっている世の中で、独りになれる場所なんて映画館くらいしかないじゃないか。
「汚くて、美しい国」で独りになれる場所。
それが映画館なのだということを、前編後編通して痛切に感じた。

「憎み合うよりも、分かり合おう!」
違う。
わかり合うからこそ、憎み合うのだ。
憎み合うからこそ、わかり合うのだ。
汚くて、美しい日本という国は、これからこの映画が描いたように、分かり合っているからこそ憎しみ合うという状況にどんどんなっていくのだろう。
SNSなどのメディアによって、誰々がこう考えているとか、こんな生活をしているとかなにもかもわかってしまう社会になってしまった。
分かりあった時に、湧いてくるのは愛情もあるだろう。
しかし、同時に憎しみも湧いてくるに違いない。
愛しているからこそ「なんでこんなに分かりあっているのに繋がれないんだ!」というジレンマに苦しめられる。
バリカンと新次のジレンマはそこなのだと思う。
分かりあっているからこそ、彼らは激しく拳を交わし合う。
痛みという感覚を通して会話をする。
感覚の交換。
感覚を共有することは、どんなコミュニケーションよりも繋がりを感じられる。
暴力も感覚の交換だし、セックスも感覚の交換だ。
だからこそ、孤独と対比させるようにこの作品には暴力とセックスの匂いが満ち満ちている。


そして、暴力やセックスにいたわりや慈しみみたいなものが出始めた瞬間に彼らの繋がりは途絶える。
なぜなら、彼らは暴力やセックスでの激しい感覚の交換でしか繋がれないと思い込んでいるからだ。
一般人のように「いい塩梅で繋がろう、しんどくない程度に」という繋がり方を知らない。


愛は憎しみであり、憎しみは愛である。
愛し合っているからこそ、憎み合えるのだし、憎み合っているからこそ愛し合える。
人を憎むことのできない人間は死ぬ。
そんな、汚くて美しい国に私たちは生きている。
この映画は、汚くて美しい国でどうやって生きればいいのかという答えを教えてはくれない。
その答えは、2021年までに私たちが自分自身の手で見つけなければならないのだろう。


やっぱり
目の前が、、、、一望の、、、、荒野だ。
ケンヤム

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