tsura

ボヘミアン・ラプソディのtsuraのレビュー・感想・評価

ボヘミアン・ラプソディ(2018年製作の映画)
3.7
大晦日。

久々に紅白歌合戦を見て年末を過ごす事にした。
(余談だがその前に年忘れにっぽんの歌を見て昭和に浸る笑)

なんといっても今年はDA PUMP「U.S.A」、サザン、北島三郎から松任谷由実、松田聖子、乃木坂46、あいみょんと言った新旧入り乱れ。
勿論、ハイライトは米津玄師だった筈だ。

でもやっぱりミーハーかもしれないけどインパクトが凄まじかったのは言わずもがなサザンの勝手にシンドバッドなのではなかったか。
松任谷由実や北島三郎に絡んだシーンは間違いなく平成最後の象徴であった。

何が言いたかったと言うとフレディ・マーキュリーという時代の象徴がこの作品でもって総決算的な立ち位置で見せられたことで、ひとつの時代が移り変わるのだなと感じたのだ。

ではその超が付くほど話題沸騰中の本作に対して何故にこれ程迄に世の中が熱を帯びているのに…私が冷めている理由。(2019年1本目)

それは彼に感情移入出来なかったし、何よりベストアルバム的なお得感な味と二番煎じ感から解放される事が無かったからである。

この作品を手放しで絶賛している方にはなんとも辛辣なのだが。

たしかにクライマックスのウェンブリーでのライブエイドの再現は間違いなく近年稀に見る素晴らしいシーンの一つであった事は言うに及ばずである。

あのピアノの音から始まる興奮と感動をよくここまで高い次元で再現できたなと。

しかし私にはあれはあくまで再現、でしかなかった。
トットナムのホームスタジアム改築に伴う間の間借りでウェンブリースタジアムがホームになっているが、あのスタジアムの興奮の坩堝を映像ながらリアルで見ているとどうもしっくりこないのだ。
そして、何より語りたいストーリーの主軸が何処に置かれているのかまるでさっぱりだった。

Queen誕生前夜からストーリーは進むわけだが監督や製作者達はそこから語りたかったのだろうか?

私がこの作品に携わっていたら、このくだりはすまないが回想で終えてしまう。

それより語りたいのはQueenというバンドが華やかに舞う中で作られた音楽史上名高い「オペラ座の夜」の秘話、バンドの苦悩、何より愛に飢えたマーキュリーの苦悩やゲイとしての切なさ、ルーシーとの辛く切ないドラマではないか。

それだけでもボリュームがあるのに、矢継ぎ早に語られ進むストーリーには辟易。

更には売れてもいないのにカリスマ性をバシバシと放つマーキュリーがトントン拍子にアルバムを創造していくシーンはまさに美談そのもの。

例え、そうだったとしても彼なりにインスピレーションが湧く過程は様々にあった筈でその辺りの線引きも稚拙。

ブライアンシンガー監督自身がゲイなのに、語られるその辺りのストーリーは艶めかしいフレーズの切り貼りで一辺倒だった。(その手の哀切を見たいならブロークバックマウンテンや君の名前で僕を呼んで、の方が億倍切ない。)

最後にはマーキュリー彷徨っていた理由をあんな感じで語られていくと彼がまるで滑稽にしか見えない。

そして時代の変遷を凄まじいロックで駆け巡った彼等の最終目的地がライブエイドでしたチャンチャン。
それでこの映画良かったのかー!

と思わず違う意味で叫びたくなってしまったのは私だけだろうか。

確かにベストアルバムの様なあれこれ摘めるお得さと、懐かしきロックを思い出すには十分過ぎる出来とは思うけれど。
ロック嫌いの私でさえ愛聴した曲たちはこんな美談の中で芽生えたのだろうか。

Queenが話題になる度にリリースされるベストアルバムを映像化した様なその出来映えにいささかの疑問と寂しさを感じながら映画館を後にした。
tsura

tsura