ダンク

ボヘミアン・ラプソディのダンクのレビュー・感想・評価

ボヘミアン・ラプソディ(2018年製作の映画)
2.5
本当に久しぶりに映画館で映画を見ました。

クイーンは大好きで彼らの名曲の数々を最高の音響設備の元鑑賞出来るというだけでも高揚感が止まらず終始浮かれた気分で上映を待っていました。

しかし結果的に僕はこの映画に満足できませんでした。

この映画の向かっている超目的がライブエイドでの彼らのパフォーマンスであり、伝説的なステージの後のことは、ナレーション乃至字幕で語らせることはもっともであるし、一番簡潔で洗礼されたラストであることは疑いようもない。その演出が功を奏してこの容易には語り得ないフレディの物語を映画として纏める事にはかろうじて成功していると思う。

しかし全体としてクイーンというバンドに焦点を当てるのかフレディその人に焦点を当てるのかという問題を終始捌き切れなかった結果、物語として終始散漫とし観客としてその中に入り込めいという微妙な印象が付きまとい集中できなかった。
もちろんそれらがこの映画の素晴らしいラストシーンによって、また偉大なフレディマーキュリーと彼のバンドのなし得た偉業によって撤廃されるので、ミュージシャンを描く伝記映画としては異例の大ヒットを飛ばしている事にも納得はできる。
ジョンレノンの伝記的映画「ノーウェアボーイ」もカートコバーンの「コバーン」もジミヘンの映画もシドアンドナンシーもスーパーソニックもイアンカーティスの映画も8マイルでもここまでの注目度と熱狂で迎えられなかったし、ボヘミアンラプソディーの成功は凄まじいものであると思う。
だからこそこの映画について自分が耳にしていた前評判や周囲の騒ぎように比べてみて実際見てみると映画としてそこまでではなかったという個人的な落胆も自分の低評価の一部要素を補っているのかもしれないが、それにしてもこの映画には何個かおかしい部分があり、確実に鑑賞中の自分をイラつかせたシーンがあるので書いていきたい。

まず先ほど言っていたこの物語をクイーンというバンドかフレディマーキュリー個人に絞るのかという点が煩雑としており物語が終始纏まっていないと感じた事に関してだが、これこそこの映画の大問題であり、クイーンというバンドを映画を語る上で最も難しい要素であると思う。
確実にクイーンはフレディマーキュリーによって成り立ったバンドであり、彼なしには当然語り得ない。
彼の死が更にそのクイーンの名声を高め伝説的で感動的なものにしたと少なからず思う。
それではフレディマーキュリーのことだけを描けば良かったのか?
確実にそうではない。ラストシーンのライブエイドでのパフォーマンスを感動的に描くためには他のメンバーとのストーリーもしっかりと語られなければならないしそれらを語り得てこそ、低迷しクイーンは終わりだと言われた時代からの復活のステージがよりドラマチックに強烈な印象を残すことができる。
先ほども言ったようにこの映画はその演出に成功しているし正しく幾らか感動的である。
このラストに向かう展開とラストのシーンにこそ真骨頂があり、多くの人を魅了した理由があることを強調したい。
しかし、このフレディとクイーンというバンドの両方を満遍なく語らなければこの感動にはたどり着かないという根本的な難点こそが物語を散漫にしてしまう最大の要素であったと思ってしまう。
満遍なく描かれていなかったのではなく、満遍なく描かれていたこそ大きな主題が2つあったからこそ複雑なのである。
前半はフレディ中心というよりかはクイーンというバンドの飛躍、それぞれのメンバーとフレディの物語という具合にバンドに焦点を当てて物語は進んでいく。
しかし後半からはフレディが主役になってくる。
中盤のバンドが大勢の記者と対話するシーンからだんだんフレディに焦点が当てられていく。このシーンはこの映画の中で最も素晴らしい効果的なシーンの1つであると思うし、カメラのレンズの中からピントが良くないフレディが映し出されフラッシュがチカチカする演出も彼のはっきりしない心境とこれからの不安を煽られる。実際見ていてここから面白くなりそうだど思っていた。
ここからこの映画は明らかに暗くなりフレディの転落を描いてゆく。
しかしこのバンドからフレディへの焦点の移動の推移が微妙でその後もイマイチぱっとしない。
元々前半もバンドについて主に描かれてはいるが、フレディ寄りの演出であったことは間違いない。この微妙な距離の焦点の移動、フレディに少し重点を置いた前半とまあほぼほぼフレディに重点を置いた後半とがあまりにコントラストに欠け、パッとしないのだ。
ここで1つ思ったのだが、最初からフレディの転落や徐々に彼を覆い出す暗雲をより強調し、物語に一貫性を求めるのであれば、これは大分冒険的なものだろうがナレーターを入れて欲しかった。
クイーンを語る上でフレディを軸に描かなければいけないのは明白であるのだから、誰の立場でもないただこの物語の全てを知っているマスターたる声にこれらを説明させても良かったのではないかと思う。
そうすれば画面でメンバーを描きつつも主人公のフレディというところはしっかりブレずに焦点の推移、展開を必要としない。
フレディだけを描く為ではなく、クイーンというバンドと彼を同時並行で描かなければいけないからこそ描写ではバンドを語り、その中でも軸となりこのストーリーの主人公はフレディであることを明らかにするためにそれは必要ではなかったのかと思う。そうすれば焦点が完全にフレディに移るところももっとスムーズに、より彼の悲劇的な運命を大きなドラマにすることも可能であっただろう。

前半、フレディとメンバーを描くのは大いに結構だが、少し口説い。
周りの熱狂ぶりや、当時の状況、第三者からのクイーンをもっと描くべきであったと思う。この点はクイーンというバンドを語るという目的を達する上で絶対に必要であったと思う。クイーンを語らんとしすぎるが故にシーンからシーンの展開が微妙で終始映画の雰囲気が変わらなくてどんどん引き込まれるといった事がなかった為、この点は非常に残念に思った。要するにここでもコントラストがなく退屈に感じた。

そしてこの映画の決定的なシーン、ソロの活動をメインに移したフレディが自分の制作場所兼パーティ会場で1人どうしようもない状況に陥っている時に彼女がやってきて大雨の中革ジャン男に決別を下すシーン。
実際このシーンはフレディと観客を一気に引き寄せ、壮大なラストへ向かうための一大転機の場面であるが、自分は逆にこのシーンのせいでこの映画から気持ちを一気に引き離されてしまった。
実際このシーンは滑稽であると思う。
これまで描かれてきたフレディはとんでもないエゴイストで自分の才能と実績に酔いしれたとんでもない自己中野郎といった印象である。
その彼がこのシーンで急に正論を並べて革ジャン男を叱責するのである。
これはどういうことか?フレディの別なメンバーに対する仲間思いな面がもっとはっきりとこの宣言のシーンでそれらが彷彿するほど描かれていれば、もっと人間的な気取っていない面が描かれていればと思うが、この時のフレディは急に人格が変わったように豹変し雨に打たれてやっと目が覚めた、今この瞬間に最高の人間に生まれ変わったといったような妙な印象を受けてしまう。
だからこそナレーターが必要だったと強く思ってしまった。このシーンはどう考えても今までの流れからしておかしな印象をうけてしまう。お笑いである。

他にもエイズを発症するフレディの運命を部屋から唐突に流れ出すエイズのCMによって彷彿させるのは大分軽率であったし、久しぶりに実家に帰るシーンも彼の内心相当複雑な出来事であったはずにもかかわらず急に実家の部屋で家族と対面するカットから始まり、その表現が彼と家族と交わした少しの会話によってだけ匂わされているのは少し勿体無い。玄関のドアの前のシーンを入れるであるとかもう少し前後の流れを考えたものにして欲しかった。

このようにこの映画にはクイーンを語る上で必要な要素はほとんど揃ってはいるが、物語としては一貫性をかけていた。
それが故に勿体ない。
ラストシーンは感動的であるし最高であるが、どこかまとまりに欠け散漫としている。
それはコントラストの効いたシーンや対比の少なさに原因があるのではと思う。
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