白眉ちゃん

リバー・オブ・グラスの白眉ちゃんのレビュー・感想・評価

リバー・オブ・グラス(1994年製作の映画)
4.0
『逃避行未満の逸脱劇』


 再見。今年特集された『ケリー・ライカートの映画たち 漂流のアメリカ』の4作品の中で、デビュー作にあたる『リバー・オブ・グラス』が犯罪逃避行モノのジャンルを解体するようなオフビートな作劇で好みだ。観念的な対話の映画『オールド・ジョイ』('06)も忘れ難い。


 コージーはフロリダ州マイアミに住む一介の主婦である(ケリー・ライカート自身もフロリダ出身)。これといった夢もなく、家庭への愛情も薄く、人生に退屈している。母を連れ去ったというサーカスは一向に来てくれない。ハリケーンは来たけれど牛たちを殺しただけで、『オズの魔法使』('39)のように彼女を不思議な王国へと誘ってはくれなかった。『イージー・ライダー』('69)や『ストレンジャー・ザン・パラダイス』('84)が目指したフロリダには”もうすでに居る”。彼女は日々、些細なことの蓄積に蝕まれた末の殺人やどこにでもある高速道路の果てを夢想しては、「Cozy(居心地が良い)」という自分の名前の皮肉な響きに乾いた笑いを作るだけである。

 同じく退屈を抱えた孤独な人がいる。隣の郡に住むリーは30歳手前にして母親と二人で暮らしている。朝、起こしに来た母親に悪態を吐き、ろくに働かずにふらふらしている( in limbo)。そんなリーが偶然に銃を手に入れて、バーにてコージーと(運命的な)出会いをはたす。忍び込んだ他人の家のプールで戯れる2人。突如現れた家人に驚いて銃の引き金を引いてしまう。家人の倒れ込む姿を見て、殺してしまったと早合点して逃げ出した。かくして逃避行は始まる。コージーの父親ライダーによる約3分間に及ぶ激しいドラム・ソロの大胆な演出が2人の勘違いを劇的に彩る。

 犯罪逃避行モノとしては、女性側のモノローグが差し込まれる構成などは『地獄の逃避行』('73)っぽい。しかし、多くの逃避行モノにあるようなロマンスはコージーとリーには介在しない。『俺たちに明日はない』('67)のような性的な含みもない。リーにはそのつもりがないわけではないようだが、コージーには迅る逃避の願望があるだけである。また犯罪の面に於いても、リーはコインランドリーの衣服を盗む程度の小悪党でコンビニ強盗もままならない。銃を構える練習や宙に向けて発砲することはできても、誰かに銃を向けることは本当はできないのだ。極めつけはラストの高速道路の料金所である。「突っ切って!」と叫ぶコージーをよそに、25セントの心の咎でブレーキを踏むリー。小市民的な彼では犯罪逃避行モノの男役には絶対的に不足なのだ。


 そして初めから誰も殺してはいなかった事実がコージーに伝えられる。彼女はテレビで報道されるような犯罪者でも何者でもなく、誰も彼女を追いかけてはいなかったのだ。「誰しもが”法の線”を跨いで居続けることはできない」と序盤で語られていたが、リーとでは”法の線”を破ること(”料金所”はそのわかりやすい象徴だろう)は叶わないと悟った彼女は、見当違いな同棲話を持ちかける男に銃を向ける。結局、コージーは銃と同様にもとの場所/もとの生活へ戻って行く。逃避行は成功しないし、ニューシネマのような破滅もない。ジャンルの約束事は尽く回避された。しかし、引き返していく車の背中をとらえたラストカット、コージーは冒頭のコージーとはもう異なるだろう。血も死体も映りはしない為、リーを殺したことが事実なのか判然としない。それでもGail Wyntersの「Trav'lin Light」の歌詞が「あの人はいなくなったから 気ままな旅に出る」と彼女の未来を代弁する。彼女は退屈な人生からの束の間の逸脱を果たし、自分を連れ出してくれる男の存在や銃といったきっかけ、或いはその他のあらゆる機会を待つだけでは人生は動き出さないことを知ったことだろう。コージーの逃避行はこれより始まるのだ。
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