おっとっと

I Dream in Another Language(英題)のおっとっとのレビュー・感想・評価

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「言語学者 映画」で調べるとかの有名な『メッセージ』が出てきてしまうんですけど、あの物語は、それはそれで大好きなんですけれど、あれは「理解」してしまう物語で、こちらは「理解し得ないこと」を理解する話。「理解し得ない世界があることを」理解する話。

20年代は言語だ!と勝手に掲げ、『ドライブマイカー』『CODA』を筆頭に『ユンヒへ』「Western」などでも毎度想起していたが、本作も同様に多言語を用いていて、しかし17年製作か…早い…
しかし「言語学者」という英語を初見じゃなかったので、何処かの映画でお目にかかっているように思うんだけど、思い出せない。『メッセージ』は日本語字幕で見てるし。

『CODA』では、マジョリティは、マイノリティが持つ要素をどれだけ持っていても「同化」出来ないことを描いていたが(持たざるもの/持つもの は多数/少数共同体という文脈において使用しています)、本作でも屹立と「第三者が理解できないもの」として第三言語(設定では現在の村に2人しか話者がいない)が登場し、英語字幕も第三言語にはひとつも載らないときた。我々も「理解」を遥か遠い彼方へと追いやられる。

『ドライブマイカー』をこちらで見れた恩恵として「英字幕が多言語にどのように起用するのか」を知れたのだが、『ドライブマイカー』は、あの物語のそれと同じように、“文脈”を汲み取ったそれはそれは適材適所の字幕が並んでいた。『ドライブ〜』は、それこそ三言語以上の扱いなので、それも気にしていたが、全て「文脈を読めば分かる」という優等生的字幕であった。
プレビューで見た『犬王』は、(恐らく英国は一般公開されてない…アニメ週間の一環で単発上映)あの奇怪な古語混じりの日本語を何も反映させない、ただの英語字幕であったが。
という母語話者から見る第二言語の字幕、は本作とはずれてきてしまうのでここらへんにしておくが、
例え音をどれだけ尊重する言語学者でも、対話を尊重する学者でも、やはりその作業は決して同化ではなく、それはそれは果てしない歩み寄りなのである。そしてそれは対等ではない、強者からの一手であることを強調したい。

さてもう言いたいこともとっ散らかってきて、勝手に締めようかと思うけど、

本作ではマジョリティによる、完璧な力関係が作用してたし、第三者の介入で、均衡が崩れたのも事実(良い方向に、悪い方向に、は結果的に判断できないけど、変化を起こしたという意味で第三者としての役割は立派に果たしている)
という言語への目配せや面白みは散りばめられるのだが、
その前後、その背後、そして何より主人公が無駄に色男過ぎるところはかなりのノイズ。
おっとっと

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