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寝ても覚めてものdaisukeookaのレビュー・感想・評価

寝ても覚めても(2018年製作の映画)
5.0
見事に引き込まれた。どうということのない日常の中に潜行する緊張感。それを引き起こす源は、映画の中の亮平と朝子だけでなく、観ているこちら側にもある。双方がスクリーンと観客の間の大気中で化学反応を起こす。

冒頭の「ボーイ・ミーツ・ガール」。小道具と音が周到に配置されて「撃ち抜かれる瞬間」を刻み込む。足元に寄るカメラも、中盤の転機に備えて周到に動いている。

通奏低音になるのが、写真家・牛腸茂雄による「SELF AND OTHERS」。普通の人たちを普通に撮ったポートレートの数々。演出を排した静かなポーズが、いかに雄弁か。映画の登場人物たちの所作は、限りなく無駄がなく、観ている側の日常に沿う静けさで、つなぎとなる街の風景も全てが「普通で静かな日常」だ。だからこそ「転」にあたる肉体の動きが際立つ。ただそう動くだけで、純粋に意味が前に出てくるのだ。

亮平が朝子と手を繋いでモールの中を歩くシーン。穏やかで幸せなはずなのに、まるで能面のように淡々とした亮平の表情。二人で歩いていても一人になってしまう時はある。浮いた心は「なぜおれなんだろう?」「なぜ彼女なんだろう?」と言葉にならない問いに一瞬絡め取られる。そんな「虚」の表情がリアルだ。

川のそばを走る亮平を追う朝子。ドン引き俯瞰のカット、走る朝子にピッタリ合わせて影と日向の境界線が画面奥へ上がっていく。その動きに感嘆した。先を暗示する撮影の奇跡だ。

過去に愛していた相手を諦め、新しく出会った相手と将来を誓う。そこに過去の相手が現れる。そんなことは映画だけでなくて現実でも往々にしてある。けれど「そっくりな人」ほど過去の楔の強さを現すモチーフは無く、そこに朝子の人物造形が輪をかける。「話」でなく「画」に語らせるのが「映画」で、その仕事を徹底した作り手に感服する。

たしか村上龍だったか「愛している二人が手に手を取って崖から飛び降りても、相手の考えていることなど分からないままなのだ」と読んだことがある。確かにそうだ。最期の言葉など交わすことも無くパートナーを亡くしたおれは、彼女の頭の中も心の中も分からないままだ。周りがどんなに「彼女は幸せだった」と言ってくれても、確かめようはなくて、それはたとえ今彼女が生きていても、きっと変わりはないだろう。

逆におれがこれから誰かを好きになり「一緒に暮らそう」とプロポーズしたとする。しかし相手は、おれが亡くしたパートナーを愛していたことを知っているわけで、常に「それでも彼は私より亡くしたあの人を一番に想っているのでは」と疑い続けるかもしれない。これはこれで面倒な話だ。

そんなふうに現実は、どこもかしこも自分と相手の間の「こう思っているはずだ」という幻想に繋ぎ止められて立ち上がっている。それを飲み込んで、それでも亮平と朝子はラストから先の未来を選択する。それが好きだ。

そして、猫、名演技。
この子がもしいなかったら、この二人の行く末は違っていたかもしれない。
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