ケンヤム

ニッポン国 vs 泉南石綿村のケンヤムのレビュー・感想・評価

ニッポン国 vs 泉南石綿村(2017年製作の映画)
4.5
とてもぞっとする映画。
さっきまで、画面の中で元気に話していた人が、テロップでさらっと死んで行く。
映像や編集の加害性をここまで押し出したドキュメンタリー映画もないと思う。
しかし、これこそリアリティであると思う。
石綿という時限爆弾が唐突に爆発する様子を、映像として撮るのではなく、映画の手法に則って表現されているのだ。

そして、さらにぞっとするのが一連のアスベスト被害における政府の無策を大臣の謝罪ひとつで許してしまう原告団の人たちが大半だったということだ。
油岡さんは、なぜ怒らないんだ!と自身が率先して怒ることで、彼らを鼓舞し、彼らはそれに触発されるように大臣に謝罪を求めたが、謝罪を受けた瞬間「彼はいい人だと思う」と怒りの矛先を鞘に収めてしまう。
あんなに人が死んだのに。と私のような部外者は思ってしまう。
しかし、彼らもそうするしかないのではないかと思う。

人間は演じる動物である。
彼らは、石綿を吸わされたことで人生を被害者として演じることを強要されたのだ。
石綿裁判を一つの舞台と考えて、国と原告団をアクターとして設定すると、大臣の謝罪というのはこの舞台のクライマックスだ。
クライマックスでなければ困るのだ。
なぜなら、終わりのない物語はアクターにとって地獄そのものだから。
彼らは演じ続けることの恐怖を身に染みて感じ続けてきたのだと思う。
私たちはこの映画の不毛な世界、想いと言語が無意味化した世界から、たかだか四時間で逃れることができる。
しかし彼らは、死ぬまで逃れることができないのだ。


どんなに嫌なことがあっても、奥崎謙三のように狂うことすら許されない社会に私たちは生きている。
叫んでいる時奥崎謙三の目には一切の迷いがなく、油岡さんの目は泳ぎっぱなしだ。
この2人の眼差しの対比が、昭和と平成の時代の対比そのものであると思う。
私たちは、迷いの時代に生きているのだ。
市民の唯一の武器である怒りすら取り上げられた世の中に生きているのだ。

怒りを市民の手に取り戻さなければならないのだと思う。


原一男監督自身この映画を、迷いながら撮って迷ったまま終わった映画だと言っていた。
たしかに原一男監督が、しどろもどろにインタビューしてるシーンが多かったように思う。
あの人ですら、あんなに迷う時代なのだから一般人である私が迷わないわけがない。
だから、迷いながら生きていけばいいのだと思う。
原一男監督が迷いながら撮り続けているように、迷っている過程そのものを人生にして行くしかないのだ。
大変な時代に生きている。
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