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スリー・ビルボードのotomisanのレビュー・感想・評価

スリー・ビルボード(2017年製作の映画)
4.2
 ふと、妙な事を思ってしまった。大枚叩いて警察を挑発する意見広告を掲げ、結果、傍からは署長を自殺に追い込んだと目され、挙句に署には火まで付けてしまう強面ミルドレッドがあっさり全面無罪となる成り行きと、それとはまるで関係なさ気な、市民の武装権について、その意味の元に立ち返る、要は憲法修正第2条に書かれた事をめぐる連邦との闘いへの発展についてである。
 娘を多分毎度の事なんだろうが親子喧嘩で突き放して、その夜、レイプ焼殺で失ってしまったミルドレッド母さんの後悔と怒りが「愛」にほぐされて、市民の敵はみな、即ぶち殺しでは無く、審理の場に引き出されるべきであると改悛する話でねぇか?と思うところだが、それはこの2時間、絵で見える部分の事で、その延長には母さん自身の行状への始末と犯人候補だったアイダホ人への決着付けが続いてるのであって、そこが無罪であり、ブチ殺しなしの連邦政府への疑義の発生という事。政府の憲法違反を問う事に繋がってしまうという事である。あのミルドレッドが走り出せば当然の成り行きなのだ。

 そこでまず問われるのは、なんでミルドレッドが無罪なのか?だが、これは陪審員が無罪と決めれば、上訴なしで決まりである。ではなぜ、みんなが無罪と思うかといえば、自殺した署長はミルドレッドの広告を苦にしておらず、むしろその意気に好意的であったことが遺書からうかがわれる事。もうひとつ、署長の遺言で元のろくでなしから人が変わってしまったディクソンの証言である。悪く言えばディクソンの変貌は出来過ぎだが、ま、いいじゃないか。署長の背中を押してあのディクソンも底から変えてしまった作用によってミルドレッドの警察への火付けも相殺でケリである。なお、歯科医への暴行の件はセカンドオピニオンを採用すれば訴えは取り下げとなるだろうから言及はしない。

 さて、もうひとつ、アイダホ人の問題はいわば筋違いの話である。しかも国家が口を閉ざす秘密事項に関わると軍が勝手に言ってる事でもある。
 しかし、9.11以降そんな憚りに目を瞑り勝ちだったろうが、20年を経てブッシュ政権の何が見えているだろう。イラクを始めアメリカが介入した中東はどうなってしまったろう。頭を冷やして足元を見直さなければ。分断の地割れに股を割かれるのは真っ平だろう。
 あのアイダホ人がどこで誰に何をしたか、それをなんでミズーリくんだりで吹聴してるのかだって問題だが、秘密の作戦に彼を駆り出して大量破壊兵器の疑いを着せた他人の国かどこかで誰かにしたレイプの責任はアイダホ人一個が着るべき事なのか?困難な軍務を要求した軍はどうだ?その軍を動かした連邦政府はどうだ?その決定の元の判断は別の思惑のために不当に下したものではないのか?長年謂われ続けた現実の疑いが、こんなことをきっかけにまた浮かんでくる。
 とかく政府とは碌な事を求めて来ない。憲法修正条項第2条が市民の武装権を認めるのはそんな連邦に対する立場を擁護するものである。連邦政府が軍を借りてアイダホ人の事実を隠匿するならミルドレッドも武装してそれに応じなければ対等といえない。そしてその訴えるところは、ひとたび起こしたことを他人に吹聴するようならば、もう一度したくなるかもしれないという事である。
 だから、その事実を明確にしなければならない。これに異を唱える陪審員は稀ではないか?その心証もあって、ミズーリのエビングのミルドレッドは無罪の可能性があるのである。

 ただし、これはあくまでもミズーリのエビングの話である。映画を観て気付いただろうか?ミルドレッドの店、または自宅で、看板のある道沿いで、その背景や窓の外にはいつも緑の山が見えている。日本でいう里山の風景である。ディクソンの自宅玄関からは谷あいの屋並みと教会も臨める。ついでにグーグルでもいい、ミズーリの国土を鳥瞰すればどれほど野山が幾重に続くか驚く事だろう。ちなみに、その北隣がアイオワ州、「マディソン郡の橋」の舞台でその景観はエビングとは地続きのそれである。
 全てはこの山と谷のどこかの町のできごとで、あの山ひとつ向こうの町には無縁の話なのである。おそらくそれは元々アイダホも同じ事だったのだ。しかし、ひとたび軍に入り世界国家アメリカのお呼びがかかってしまえば大統領の発令で世界の裏側までも飛んで行ってとんでもない事を求められてしまう。
 あのアイダホ人には軍務以外に生きる道がなかったのかは知らない。ただし、ミズーリとは対照的な大規模粗放の農畜産が巨大ブランド「オレアイダ」を産み、世界企業「ハインツ」の基盤となり、世界企業が世界に関与する政府に利を見出すなら、その軍は世界企業と同系同根である。アイダホでかの経営の縛りに馴染まず軍にでもゆくしかないとしても同じアメリカに取り込まれるだけである。しかし、その軍で教え込まれる事はどんな副作用をもたらすだろう。
 逆にディクソンもどんな幸運か、案外あの署長の取り成しなのか?連邦から呼ばれずに済んだのかも知らない。だが寒冷なアイダホより温潤なミズーリの方が生きる余地は広いかもしれない。もとより生まれも育ちも平等とはいかないわけだが人倫にその差があってはいけないとはどういう事か?しかし、現に差があって人倫乏しい人間にはそれを満たす事が生きる意義となるべきなのだ。それが叶ったのがディクソンであり、理に勝ち情に強いものの、変わりつつあるらしい?のがミルドレッドである。彼らの事はそういうわけで、あんな西部劇紛いな荒事の立て続けではあるが刑法や刑事訴訟法で扱うより隣人のまなざしで判断するのが妥当なのだと思う。