4回も挿入歌を流さざるをえなかったことが、本作の問題点を象徴している。
要は脚本がまったく整理できておらず、
すべての要素がとっ散らかってしまっているがゆえに、どこがいちばん熱いシーンか製作陣も判断できなかったのであろう。
本シリーズは、クライマックスのシーンにおいて、水樹奈々の挿入歌を流すという伝統がある。
たまにほかのキャラクターのキャラソンが挿入歌として流れることがあるが、例外的である。つまり、挿入歌は多くても2曲だ。
それが2時間の映画で4回である。いくらなんでも多すぎだろ。
前編も合わせると、5回歌が挿入されていることになる。ミュージカルか。
このことだけでも、脚本の破綻をよく示している。
私見ではあるが、もともと本シリーズは、脚本のよさが魅力であったように思う。丁寧にキャラクターの描写とエピソードを積み上げて愛着を持たせたあと、そんな彼女たちが己が信念を懸けて闘う。だからこそ、引き込まれるし、哀しくもなる。
だが、そういったシリーズの美点が今回の二部作ではものの見事に消えてなくなってしまっている。なぜなのか。
おそらく、こういうことだろう。
原作・脚本の都築真紀はそもそも2時間の長編を構成する能力がなかった。少なくとも、映画という多数の関係者の利害が交錯するなか、起承転結がきっちりとついた方程式を解いてみせる力量はなかった。
こう書くと、その前の映画2作、無印とA'sはよかったではないかというツッコミが聞こえてきそうだ。
たしかにそうだ。
しかし、冷静に考えてみてほしい。
前の2作は、アニメシリーズを再構成したリメイクなのである。
ゲームというキャラの流用もとはありつつも、完全に新規のオリジナルストーリーは本作がはじめてである。
都築は本来、キャラクター同士のミニマムな関係性が生み出すドラマを描くことに長けている。平たくいうと小さなはなしを描くのがうまい。これまでのアニメシリーズも壮大な戦いをテーマにしつつも、実は小さな関係性のドラマをひとつずつ積み上げる形でそれを描いてみせていた。
だからこそ、キャラクターを順番にとりあげることができる30分アニメ、およびそのリメイクでは天才的な筆の冴えを発揮した。
しかし、これが2時間、あるいは前後編の4時間という長編の物語を語るとなると、途端にダメになる。
2時間の映画を飽きさせずに観せるためには、観客の関心をひくような構成の工夫が必要である。具体的には各キャラクターのドラマをどれくらいの分量で、どういう順番で語るかに気を配らねばならない。まさに「物」を「語」るのである。
今回のような、回想シーンを安易に乱発する構成は、物語の冗長感を煽ってしまう。
また、複数箇所で行われる戦闘シーンを、なんにも考えずに順番に流すだけでは、テンポがわるく感じられ、いまなにが目的でなにをやっているかを観客は容易に見失う
しかも、本作はお祭りオールスター映画としての側面も備えている。すなわち、各キャラクターにそれなりの見せ場を用意してならねばならない。もちろん、新キャラたちも同様だ。
これは相当な気配りと工夫が必要だ。
しかし、都築はあまりにふつうに、順当に語っていってしまった。
その結果、どうなるか。
カタログみたいにそれぞれのキャラクターの物語的に必要なんだか不要なんだからよくわからない見せ場があり、メインストーリーは遅々として進まないどころか、なんだかんだうやむやになり、なんのかんので滅亡寸前の惑星は救われる。なめてんのか。
なんとか盛り上げるために、テキトーに挿入歌を流してみたりするのである。だが、観客はそれに騙されてはいけない。
ほかにもツッコミどころは多々あるが、ひとつずつ列挙するのは疲れるので割愛する。