アトミ

さびしんぼうのアトミのレビュー・感想・評価

さびしんぼう(1985年製作の映画)
4.2
85点

「転校生」「時をかける少女」に続く尾道三部作の第3弾。

主人公はお寺の一人息子で高校生のヒロキ16歳。
母に借金し買ったズームレンズカメラ。
フィルムを買う小遣いもないので写真は撮れずファインダーを覗き、あちこちを覗き見する。

自分の通う共学の女子は男だか女だか判らないような連中ばかりだというイメージを持っている(ガミガミ口うるさい母やよくパンツ出す先生も同じ様な対象)。
故に近所にあるの女子高の生徒を覗き見した。
そしてその中に百合子(富田靖子)を見つける(ヒロキにとっての理想像的存在)。
そんな彼女にヒロキは「さびしんぼう」と名前を付け眺めている。

さみしそうな彼女もそうだが、彼女を想う自分の心もそんな感情になるゆえ
ある日にバッタリ出会い会釈したりもするのだが「常に」フィルムがないためさびしんぼうを写真(現実)に収めることができない。
あくまでもさびしんぼうは「ファインダー越しの存在」でヒロキの「頭の中(妄想的)での存在」。
「BLOW-UP」的だね。いいね。

さびしんぼうは放課後になると音楽室でショパンの「別れの曲」を演奏する。
聴こえてはないだろうからそんな気がするのか?
この辺りでも「さびしんぼうはヒロキの妄想的存在」としての印象を受ける。
まぁとりあえずこの「別れの曲」はこの作品のテーマ。

ヒロキと連れ2人は「バカトリオ」。
理科室ですき焼き作ってピンセットで食ったり、校長室のインコにたんたんタヌキの金玉の歌を覚えさせたりといつもバカばっかり。
バレてもそこまで怒られない「愛されバカ」。
そんなヒロキに母は「勉強が出来て、ピアノも弾ける素敵(理想像)な男」に仕立て上げようとしている。
ピアノは「別れの曲」オンリー。

そんな日々を過ごすある日、部屋でカメラを覗いてたヒロキのファインダー越しに突然白塗りショートヘアオーバーオールなピエロの様な女の子16歳(富田靖子二役)が現れる。
彼女の名も「さびしんぼう」で「ヒロキにしか見えない存在」の様だ。
ここで「富田靖子=さびしんぼう(心の状態も含む)=ヒロキの妄想的存在」という図式が成り立つ。いいね。

この「ピエロさびしんぼう」は時間が経つにつれ、母や母の幼なじみや先生等にも「見える存在」になって行く。
と同時に「百合子さびしんぼう」ともヒロキは急接近し、どちらも「ヒロキの妄想的存在ではない存在」へと変化していく。
カメラを覗く事もやめてる。
この辺りも凄くいいよね。

ちょい補足。百合子は常に自転車に乗ってて、ヒロキは徒歩。
その当然「追いつけない」というリアリティを「後ろ姿しか追えない、手が届きそうで手の届かない高嶺の花」的に表現されてるのもいい。
そして2人が急接近するイレギュラーが「自転車のチェーンが外れる」というもの。これもいい。

結局「百合子さびしんぼう」と急接近したにもかかわらず「絶対的境界線」が越えられないまま2人はお別れする事になる。
ヒロキの失恋。
わかるよわかるよ。思い返すと大した理想でもない事でも「16歳にとっての絶対的境界線」てのは確実に「存在している」んだよねぇ。
もう不条理でしかないんだよ。

と、これまた同時に「ピエロさびしんぼう」とも理不尽はお別れをする事になる。
ここにもちゃんと「絶対的境界線」が存在している。

全てを受け入れてヒロキは成長する。


てなお話。
エピローグもこれまた「匂わせる」ねぇ。
素晴らしい。


PS
夕日によるオレンジ色な街並み(セピア色)が多用されている。
「夕焼け小焼けで日が暮れて」と誰もがノスタルジックになっちゃうシチュエーション。
これいいね。
おばあちゃんもいい。

PPS
母の物語(主役)的な相対的テーマもあるんだけど。
ヒロキが勉強とピアノ「別れの曲」をやらされる「理由」が結構なクズなんだよねぇ。
ちょっと恐ろしい。

PPPS
恐ろしいと言えばヒロキの「覗き」や百合子との急接近も大いに気持ち悪い。
その辺がもっとナチュラルならもっと気に入ったかもしれない。

PPPPS
「ピエロさびしんぼう」が見える様になった母がピエロをお仕置するシーン。
ここに「ある謎」が隠されてるけどそれは置いといて、「その様」が「母はクレイジーになった」と学校中のウワサになり先生を含め皆で笑い、皆で見に行くという酷いシーンがある。
時代だからかな?凄いね。
コレもあまり好きなシーンではない。
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