私にとってターミネーター2は生涯ベスト映画だ。これは永遠に変わらないのだろう。
あれは恐るべき芸術映画として捉えていて、ちまたで言う娯楽映画などではない神々しさと狂気を携えた異常な作品だと確信している。
その後に作られた続編は、シュワ当人によるセルフパロディとして捉えて、嫌いではなかった。設定も少しだけ変わってるしパラレルワールドなのだと思って二次創作的に楽しんだのだ。ネットのファンムービーがお金かけてるみたいなもんである。しかしジェニシスだけは許せず、もう二度と続編は必要ないとなった。
そんな時にキャメロンによる正統な続編と来れば、気が気でない。冷静ではいられなかった。見たくなかった。
だけれども見届けなければ、自分の今までの歴史を否定するかのようで辛かったので初日の朝イチに駆けつけた。劇場はガラガラだった。評判は悪くないけど全米で大コケなのも聞いていた。
内容は6番煎じの何度も反復されたモノだった。だけど確かに何かを表現しようとしているのを感じて、気が付けばスクリーンに釘付けだった。他の続編と何が違うのだろう?
そして、確かに其処にキャメロンを見た気がする。有象無象のパロディやフォロワー達が描けなかった到達点を見た。
でも、それはとても苦い味だった。衝撃のオープニングにより、全てを全否定されたかのような絶望から始まり、サラとの再会と、T800の辿った軌跡に想いを巡らせた。
この物語は後悔と贖罪の味がする。自分達の選択が正しかったのか分からない老人達の人生の紆余曲折の苦味が染み出している。
キャメロンのシリーズを放置せざるを得なかった苦しみと悲しみ。いい加減にしろ!とケジメを付けにきたリンダハミルトン。2の後にシリーズを汚してしまったかもしれないシュワの後悔と苦しみ。
ダニーとグレースの若い世代がそんなの知らないし関係ない、と主張しても歴史の重みとどうしようもない上の世代からのしがらみがターミネーターのように襲ってくる。T800ですら過去というターミネーターに追い付かれたのだ。
そして、人類は変わらなかった。冷戦の終焉に作られたT2からさらに酷くなったかもしれない。だから舞台は壁のあるメキシコなのだ。新たな時代の象徴を前に老人たちが若者を護ろうとする。そして国外から壁を越えてアメリカに再び救世主を連れていこうとする。
この6作目は、2作目の続編と言いながら、実はT3も、T4も、ジェニシスも総括している。全ての良いところを取ってターミネーターシリーズというものを批評し、愛し終わらせようとしているのだ。
3の女性ターミネーターのようなグレースをかつての2シュワのように味方に付け、4の機械描写や子ども描写に加えてマーカスのような人ではない悲しみも似ている、そしてジェニシスの若CGとシュワの老サイボーグ感など。しっかり全てを網羅している。実はキャメロンは自分から派生した子ども達を複雑な気持ちで送り出していたことが伺える。
このニューフェイトで終わっても構わないという哀愁も感じる。続いても良いし、終わっても良かったのだろう。そしてアメリカが否定したメキシコの女性に人類の未来を託すことにしたのだ。
ダニーとグレースはサラそのものであり、かつてアメリカが持っていたジョン・コナーという理想のリーダー像の象徴に取って変わった。アメリカはこの二十数年間でジョン・コナー的なものを失ったのだ。J・C(ジーザス・クライスト)、つまりキリストの象徴を失ったアメリカは国外の女性に、その象徴を見出だしたという物語。
だからサラは絶望し、T800は悔恨する。
今回のタイムトラベラー二人も、空中戦も水中戦もT800も全て上から堕ちていく。
堕ちた先にあるのは子ども達の未来を願う変わらない想い。
もう、ないかもしれないターミネーターシリーズ。それでも人類がまた間違った選択をするなら復活するだろう。それでも、その時には必ず希望も描かれる。