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ルイ・セローが見たポルノスターたちの実情のりのレビュー・感想・評価

1.8
本作はルイ・セロー(誰こいつ?)がポルノ産業の裏側に迫る作品である。作品からは経済的・社会的地位が高い白人男性のお節介性を感じてしまい、非常に腹立たしく思った。というのも、性産業に従事している人を見下している感じが滲み出ているし、自身の性道徳を押し付けている発言が散見されるからである。また、彼らを嫌々従事させられている像として描くことを意図しており、性的搾取の構造に絡み取られているように描写したがっている。
この視野が狭い価値観には反吐が出るけれど、我々の最大公約数的な感覚を代表している存在である。つまり、多くの人が共有している性道徳を抽出すると、ルイ・セローが誕生する。
近代化に伴って性が私秘的なものに変化していき、人格との結び付きを一層強めた。近代化とは西洋化のことである。つまり、キリスト教的な性道徳が社会を覆い、それが標準的な価値観になった。日本では明治時代以降、追いつき!追い越せ!型のキャッチアップ型の近代化が進んだ。そして、良妻賢母教育や純潔教育によって性が完全にタブー化した。
以上のような文脈があり、特に日本の性道徳は強固である。いつまで経ってもピルの購入の自由化は導入されないし、挙句の果てには「女性の性が乱れるから」との論理を打ち出してきた。また、愛する人としか性行為をしてはならないという規範の力も強い。ただのロマンティック・ラブ・イデオロギーの残滓なのだけど未だにその信奉者がいる。この感覚はモノガミー(一夫一婦)前提かつ恋愛至上主義のメディアが再生産しているのだけれど。
このように我々(一般化された他者)の性道徳を抽出するとルイ・セローが出てくる。すなわち、性の在り方は本来誰にも規定されない自由であるのにもかかわらず、様々な規制が張り巡らされ、それに逸脱すると人格的あるいは道徳的に頽廃していると批判される。特に性行為は特定の相手としかしてはならず、それを破るとビッチやゴミクズなどと罵倒される。さらに、それを性産業などで商品化することは言語道断であり、魂を汚す行為でさえある(河合隼雄)とも言われたりする。だからこそ、「コロナ禍における夜の街差別」が生じたし、それをマジガチに受け止めて批判の波に乗っていた人もいた。
話を戻すと、性産業に従事している人は無理矢理、そして嫌々やっているのであろうか。そのような人と会話したことがないので分からないが、本作を観る限りそうは思わない。つまり、性を主体的に楽しみ、1つの職業としてプロ意識すら感じている。もちろん、彼女たちはそういう環境に置かれたためそれに適応するような感覚が形成されたと憶測することもできる。が、しかし実際に適応しているのであれば、第三者が「それは体に悪いし将来的に悪影響だから辞めなさい!」と上から説教垂れても意味が無い。むしろ、それは幸福感や道徳観の押しつけであり暴力的な営みですらある。いわば、彼女たちの"状況の定義"(自分に都合のいいように解釈を変える)を再定義する愚行である。
以上のような認識が流布する背景には宮台真司が『制服少女たちの選択』や『性の自己決定言論』で喝破したように、性的実存不安を抱えた男性が一般化した女性に投影している幻想があるように感じる。性的退却が進んでいるけれど、"見たいものだけ見る"コミュニケーションを辞めて、生身の他者と関わる経験をもつべき。そして、社会によって刷り込まれた幻想や期待を破壊して再構築していく必要がある。そうじゃなきゃいつまで経ってもルイ・セローのままになる。
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