ケンヤム

カメラを止めるな!のケンヤムのレビュー・感想・評価

カメラを止めるな!(2017年製作の映画)
4.6
めちゃくちゃなものを成立させようとする人間の姿そのものが好きで、そういう人間の必死な姿を存分に堪能できるのが映画の一番素晴らしいところだと思う。
そんな人間の必死な姿は無様だし、滑稽だし、惨めだ。
なのに本人は至って真面目で、そんな時人間は笑う。
当事者は真剣だし本気で訴えているのに、その姿が滑稽だという人間の悲しさ。

この映画では、その悲しさを父親の悲しさとして描いている。
あのベテランアル中俳優はあの映画監督の、将来の姿だ。
良い父親になろうとしてもなれなかったおじさんの成れの果てだ。

人間が映画を撮ることの悲しさをおかしさに昇華することで、映画を撮ることそのものを肯定する。
コメディの役割ってそれだよなと思った。
私たちはみんな毎日を真剣に生きていて、生きていない人もいるかもしれないけど、その人の真剣に生きれないという悩みそのものは真剣で、やっぱり真剣になれない人の様は二人称視点で見ると、ただただ悲しくて、愚かで、醜いし何より腹立たしいのだけれど、それを三人称視点で見るととても滑稽で笑えてくる。
まさにこの映画の主人公はそんな感じで、映像作家なのに映像を撮ることが好きなのか分からない。
映像を撮ることにプライドもない。
そして、そのプライドを取り戻すことは最後までない。
なのに、この映画がここまで人の心を動かすのはなぜなのだろう。
それは、やっぱり、無茶苦茶なものを真剣に成立させようとする姿勢そのものが創作者の姿だからではないか。
その様は滑稽だけれど、バカがバカをやり続けるのを見ているとなぜか切実に胸に迫ってくる。
バカしか抽象を具象にすることはできない。
なぜなら、抽象はバカにしか見ることはできないからだ。
バカは夢を見ることができる。
バカは人間の作り出したルールや規範や常識を超えて、抽象を見ることができる。
そのことの滑稽さ。そんなことは一切高尚なことではないし、尊いことでもない。
というか、高尚であってはならない。
高尚を装えば、私たちはルールや規範に捕われてしまうからだ。
だから、北野武いやビートたけしは、プロデューサーの森昌行に「俺のことは誰も捕まえられないよ」と言ったのだと思う。
それは森昌行への宣戦布告であったし、世間への宣戦布告だった。
バカはルールや規範を不意打ちする。

この映画では不意打ちの連続だ。
不意打ちは笑いだ。
笑いは、この世から抜け出すポーズだ。
人間の悲しさから解放する娯楽だ。

コメディ映画を撮れる人って日本に周防正行しかいないんじゃないかと思っていたら、とてつもないコメディ映画監督が出てきてしまった。
遅ればせながら観に行って、こんなに流行っている理由もなんとなくわかった。
その理由はとてつもなく悲しいから言いたくない。

バカをやろうぜ!なんてそんなクソ寒い薄っぺらな言葉でこの映画を語りたくない。
バカに見えるのは、私たちが他人事としてこの映画を見ているからだ。
「俺はこの人の気持ちがわかるバカです。すごいでしょ。俺ってユニークで個性的でしょ。」とかそういうことを言いたいんじゃなくて「笑われる」という経験があって、それを意図的にやることの快感を知っている人間ならもう映画の中盤で号泣し始めちゃうと思う。
笑われることに一生懸命になることの尊さや偉大さ。
その勇気、誠実さ。そして悲しさ。
ケンヤム

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