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千と千尋の神隠しのGKのレビュー・感想・評価

千と千尋の神隠し(2001年製作の映画)
4.0
『もののけ姫』に続くリバイバル上映鑑賞。

公開当初も鑑賞したが、あの時は若かった。
単純に劇中に出てくるキャクターに魅了され、音楽に心躍り、エンターテイメント性の高い脚本を楽しんだ。
あれから20年。改めて鑑賞をすると、考えるところが色々とあった。


人によって色々な見方があると思うが、私は『千と千尋の神隠し』は「居場所」の話だと感じた。

湯婆婆が支配する湯屋は「働かざるもの食うべからず」の世界だ。
湯屋の中で仕事を持っていないと存在価値がないとされる。
その世界に紛れ込んだ千尋は何とか仕事を得て豚にされずに済んだが、
仕事がなかったら豚に変えられてしまっていただろう。

カオナシは「働かざるもの」の化身として登場する”人”だ。

何の神様でもない、何ができるわけでもない。
ただ湯屋の中では何かしらの価値を発揮しないといけないので、
カエルの声を借りながら金を出し「そこにいる意味」を作ろうとする。
しかしそれは暴走し、千に「作られた偽物の意味」は否定されカオナシは混乱する。

そのカオナシだが、作品の終盤で銭婆の家で役割を与えられる。
銭婆はカオナシが「いること」を肯定しとどまるように言った。

カオナシの存在から2つ読み取れるように思う。


1つは「働くことの重要さ」だ。
人は働くことによって居場所を得、生きることができると。
これは宮崎駿監督の考えそのものだろう。
わりとハードスタイルな考え方であるように思えるが
彼の働き方自体がそれを体現している。

もう1つは「働く場所=居場所」についてだ。

中盤、千はカオナシについて、
「あの人湯屋にいるからいけないの。あそこを出た方がいいんだよ。」
と話をしていた。

働くと言っても誰でもどこでも働けるわけではない。
合う合わないはあるだろうし、人それぞれで得意不得意、できることできないことは異なる。

働く場所が見つからなかったり合わなかったりするとカオナシのように暴走してしまう。

現代も同じだ。働いていないと存在価値がないとされ、取り残されたり一人ぼっちになったりしてまう人たちが出てくる。
そういう人たちが人の顔をかぶったり、匿名という名をかぶったりして誰かをたたき、承認を得ようとする。
自己幻想の肥大化により共同幻想が過剰に消費されている状態だ。

労働を肯定するとともに、明日食うことに困らない現代の日本で労働を通して承認を得ることの難しさも描いている。

『千と千尋の神隠し』が公開されたのは2001年。
それから約20年たったわけだが、その課題は解決していない。

現代人は「居場所」をどこに求められばいいのか。
それはまた別の機会に。
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