あ

欲望のあのレビュー・感想・評価

欲望(1966年製作の映画)
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・blow up=引き伸ばした写真、膨らませる、大きく見せる

・男の性格=熱しやすく冷めやすい、手に入らないものであればあるほど執心する;「名前なんてどうでもいい」、骨董品屋で買ったプロペラ、ライブ会場で群衆から必死にもぎ取ったギターの残骸、殺人現場の発見

・空想のテニス=”ボールがそこにある”という事実の共有、”楽しむことができる”という限りでのボールの価値、実際には存在しないボールに価値が見出されている
・対して、男の発見=”殺人があった”という事実は誰にも共有し得ない、他者からは妄想と区別がつかない、独りよがりな価値、実際に存在した犯行の発見に価値を見いだすことができない

見えないボールを投げた後、男は自分の発見がクソくだらないテニスより価値がないことに気づく
男が手に入れかけた価値は、これから先ずーーーっと逃した魚は大きいんだぜ的な話にしかなり得ない
有名になって調子に乗った男のふくらみ続ける欲の話だと思いました、人間一般の欲の話かもしれない
最後、彼が自分の欲深さにに気づいたどうかは知りません

ギターのゴミを捨てるシーンが好きでした、価値を共有できる誰かがいるからこそ物を持つ理由とか物の価値が生まれる、
冷静になって考えてみれば、身の回りにある物全部があのギターと同じくらいしょーもないゴミかもしれないな

空想テニスが幻想の世界とかいう解釈、意味がわからない

死体の存在を裏付ける他者との共有の可能性が消えたため、男が見た死体は現実か妄想か区別がつかない、その意味でこの映画は現実と男の妄想が入り混じっていると解釈できる
例えば、引き伸ばした写真に写る死体らしき白い影、これだけでは死体が写っていると断定できない、本当に死体が写っているのかもかもしれないし、白い影から考え出した男の妄想かもしれない
実際に死体を見た(と思われる)シーンもどこか不自然、血が一切流れていないとことか
この映画は初めから終わりまで、逃した魚は大きいという話、
真相を知るはずの男ですら現実と虚構の区別がつかなくなっているのだから、殺人の有無はもう誰にもわからない
最後のテニスボールの音は、男がそれに気づいたことを示している?
あ