おみの

万引き家族のおみののレビュー・感想・評価

万引き家族(2018年製作の映画)
3.8
高良健吾主役で一本見たくない?きりっときめた警察手帳の自分の顔写真の背後でちょけ顔するんやで、あれは演出なんアドリブなん?
「決して離れ離れにならないこと、みんな持ち場を守ること」「みんなが一匹の大きな魚みたいに泳げるようになったとき、スイミーは言った。僕が目になろう」。自分はなんかどうやらみんなと違って体が黒い、その普通じゃなさを、「赤い大きな魚」(みんなで作る「全体」秩序)の中の「目」(「持ち場」)に位置づける生き方を考えつく。みんなと違うことに意味、意義を発見する。赤じゃないから赤から離脱するのではなく、赤の中の黒を引き受ける(それによって赤がよりよく発展する)。
『スイミー』を人間社会の寓話として読むとき、感想はふたつあって、ひとつはスイミーひとりに「目」の役割を甘受させて己の利益にする「全体」の暴力。だって「黒」はたとえば人間があって「社会」がある限り必ず発生するという「犯罪」とかがあてはめられるはずで、そこに人間は魚以上に意味とか価値を付与する。執拗に。一種の「正常」な現象としてある確率で発生するといえる「黒」い存在を特殊な「異常」とみなしてその意味を任せきって、反対に「赤」を「正統」として価値を高めようとしたりする。しんど。色の軸、規範軸はいろいろあって、(この映画のいうように)富裕と貧困、正規と非正規、子持ちと子無し、よき市民と犯罪者、いろいろあります、もう無限にあります、しんど!
でももうひとつ、スイミーが「全体」の中に「持ち場」を与えられることによってもたらされるものには、暴力とは反対の何らかの作用も確かにある。少なくとも居場所があって、ここでこの役割を果たしている限り、この「全体」が存続する限りは、自分の生存も保障されている。これが確保されることの生物としての手放しがたい安心感。「全体」維持の正当性の根拠になりそうな、なってしまいそうなこの実感。軸がやたらと多様なことが、つまり救いかもしれないこと。
ほんで、だから、高良健吾こそが「全体」非難を超える話に繋がりうる最も有力な登場人物やったと思うから気になりすぎる。あの人やん!
『万引き家族』はやっぱり万引き家族たちにふるわれた暴力とか「全体」への懐疑が主眼で(「家族だんらん」を映り込ませるオープニングからも明らか)、そこで完璧を追っていると思って、そこをもったいなく感じてのこの感想の跳ねなさと思います。ここに完璧はないねんたぶん。ここで完璧な説得とか決着をしようとすると、どうしても万引き家族と虐待家族とか社会的強者と弱者を比較したりの手順によるしかなくて、前面にくる話がどっちがひどい、どっちが「」の内実を備えてるみたいなそこの争いになる(というかそういう誤読を実際たぶん招いている)(もしくはわたしが是枝を誤解している)。リリーフランキーと安藤サクラと松岡茉優と樹木希林、そらすごい圧倒的なこのへんの魅力を頼りにしてほぼ完璧なところに仕上げて、それで記述することが暴力の暴力性、人を摘発するために発せられる語彙の「」の壁感、結論は当然に「全体」から逃れきることの不可能性っていうこの虚しさ。それは無理、そら逃げきれない。
だからわたしが見たい主人公は高良健吾。我々は「全体」と生きるしかないのなら、そっちももちろん完璧ではないけれど、どうせそっちは卑怯と欺瞞に満ちてはいるけれど、それでもスイミーのふたつめの後味のほう、「全体」の非暴力性、見たくない?「警察官」としての役割と、目の前の子どもに対面するひとりの人間としての自分との距離の間隙で変顔して「遊ぶ」高良健吾の日常見たくない?見たいんやけど!世界の脅迫めいた語彙なんてラベルなんてそんなもんは変顔しながらたやすく引き受けられるようなそういう人間にわたしもなりたいんやけど!!
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