たくと

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドのたくとのレビュー・感想・評価

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ああ、タランティーノという人が好きなのだ。
もはや作品への愛ではないのかもしれないと、思うに至ったよ。

なんてったって、ポップで、男くさくて、なんだかよくわからない固有名詞ばかり出てきて、わたしに寄り添ってくれる要素なんて数えるほどしかない。
でもそれが逆にいいんだな。中原昌也に感じるものと似ている。置き去りにされて苦笑いすることの幸福感。

60年代後半、ヒッピーと落ち目の俳優に溢れるハリウッド。そこで実際に起きた「シャロン・テート事件」という惨劇を、タランティーノ流に救済する。なぜならそこに、その後の運命を決するアメリカの分岐点があった(かもしれない)から。
世界中のB級映画の「リアルじゃなさ」が、戯画的に総動員されてリアルさを取り戻す。それは例えば火炎放射器であり、ホラー映画的狂乱であり、日本映画的血飛沫である。それがタランティーノという虚実の架け橋を通って、現実世界に介入してくる。タランティーノ=ブラピからの、B級映画=ディカプリオへの愛がある。ふたりは友達なのか? “I try ;)”とブラピははぐらかす。
描かれているのは60年代だが、ふたりの主人公は60年代に乗り切れない落ち目の男たちである。この仕掛けが絶妙で、ヒッピーやパーティやポランスキーが、なんだか馴染めないものとして登場する。だから過去への賛歌では終わらない。

おそらく当時のナンバーをピックアップした音楽も、車のラジオと連動していてよい。ブラピと車とラジオのシーンは非常に多い。
ブラピはヒッピー以前から(ほんとうの)ヒッピー的文化を知るもの。映画オタクの帰還兵。上下デニムのスタイルが始めから終わりまでほんとうにほんとうに良い。

映画館のシーンで描かれるシャロンの純真さが、最後まで守られることに安心して感動する。もちろん彼女の子供も。彼女の容姿や性格は60年代的なものとして描かれてはいるが、「60年代的なもの」は決して一枚岩ではない。タランティーノにとっては彼女の体現するものは守るべき肯定的な側にいるらしい。
そしてシャロンの映画館のシーンに並行して映される、ディカプリオの酒場での迫真の演技。脆かったかれが開き直って悪役を受け入れる瞬間は、もはや美しい。8歳の子役の「今までの人生でいちばん」を与えられるにふさわしい。(「素晴らしい演技をする」という演技ができるのは本当にすごい。)

そしてラストでようやくディカプリオは、生き残ったシャロン=60年代と和解できるのだった。そこにはすでに役目を終えたブラピの姿はない。
(いまちょうどスキャンダルで大変なことになってるポランスキもいない。)
たくと

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