ヒラツカ

ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3のヒラツカのネタバレレビュー・内容・結末

4.6

このレビューはネタバレを含みます

Vol.1はレッドボーンの『カム・アンド・ゲット・ユア・ラブ』、Vol.2ではELOの『ミスター・ブルー・スカイ』と、冒頭から幸せでごきげんな70年代ポップ・ソングに乗せて踊るというのが定石だったところ、今回の1曲目は、世代もジャンルも曲調もこれまでとは180度方向転換し、なんとレディオヘッドの『クリープ』だった。これにはちょっと問題があって、ロケットが「アイム・ア・クリープ、アイム・ア・ウィアード」と口ずさみながら茫洋と歩みを進めるシーンを観たことで、「あれ、だいじょうぶかな、今回シリアスに寄り過ぎちゃってんじゃねえの」と心配になったのだ。だって、ライミ版のスパイダーマンも、ノーラン版のバットマンも、2でせっかく飛躍したのに3ではスカしちゃったわけだし、アメコミ映画に限らず、『マトリックス』や『ゴッドファーザー』みたいな名作たちですら同じようなはめに陥るわけだから、こうした傾向ってたぶん、創作物を広く商業的に公開しながら続編を展開させていく活動においては、製作者たちの思いとは裏腹に、けっして避けることができない宿命なのかもしれず、ジェームズ・ガン監督、お前もそうなのかよと思ってしまった。しかし、けっきょくのところそんな頓着は不要だった。というのも、予告編にあった、ネビュラがぐったりしたピーター・クイルを担いでいるシーンが、呑んで酔いつぶれてるだけだったというミス・ディレクションだと分かった時点で、「そうかそうか、なるほど、今回もそのつもりで観ていいのね」という信頼関係が築けたところがある。
この監督はどうやらモラルの目盛りの設定値が低いので、深刻でエモーショナルなテーマを扱う際にも馬鹿げたおふざけを繰り出しちゃうふしがあるが、そういうものを突発的で独立したギャグとして挟み込むのではなく、物語のメインストリームに直結させちゃうのがヘンな特徴だ。たとえば、ルッソ兄弟やタイカ・ワイティティの場合は、ドラックスをちょっとした小ネタのためのアホのおもしろ要員として扱うのだけど、ガン監督は、彼の単純な性質を、ネビュラの成長シークエンスにつなげる。また、そもそもが「しゃべるアライグマ」という設定自体が出オチに近いネタだったところがあるのに、本作ではそれを1本の映画にしてしまったというのも、あんまり他に類を見ない。あと特徴的なのは、元来「ヒーロー映画」というものは「正義」と「暴力」という拭えない矛盾を内部に孕んだジャンルなので、今まで手掛けてきた人たちはそのへんうまいこと言い訳をしながらお茶を濁してきたが、ガンは『スーパー!』の頃からその矛盾をメタに扱ってきており、観客がいくら斜めに観ようが死角がない。だからこそ、このシリーズは、MCUの中でも、特別な位置を保ち続けているんだろうなと実感する。
しかし、ついに完結編だ。『エンドゲーム』のときは両側に座っていたおっさんが早々としくしく泣き出したので、逆に僕はあんまりうまく泣けないところがあったけれど、今回については思う存分に感涙させてもらいました。何に泣いたかといえば、いろいろあるんだけど、やっぱり、リブート版の『スーサイド・スクワッド』でも同じようなのを観たが、アウトローたちが正しい行動を選択し1人ずつ「引き返す」というシーンかな。その後の廊下かちこみワンカット長回し戦闘シーンも、『キック・アス』のヒット・ガールのシーンをついに超えたのではないだろうか。成熟したハリウッドの特殊技術とアクションを駆使することで、金さえかければある程度理想通りの映像が作り上げられることはもはや確約されてしまう昨今、「それは見たことなかったわ」というのをまだできるのは、よっぽど胆力がある証拠。ビースティ・ボーイズの『ノー・スリープ・ティル・ブルックリン』という選曲もよかった。
それぞれのキャラクターが活き活きしていて、「いつまでもこの世界を見ていたいなあ」と思える作品が久しぶりで、堂々の高得点です。