ケンヤム

半世界のケンヤムのレビュー・感想・評価

半世界(2018年製作の映画)
5.0
阪本順治は2016年に公開された「団地」という作品で日常と非日常の境目への関心を滑稽なまでに過剰な設定で表明したわけだが、この映画も「半世界」という題名が象徴するように、あの世とこの世の境目を眺めてそれをまぜっ返すような構造になっている。
中盤までこの映画はスクリーンの中で関係を分ける。
あっちとこっち、善と悪、外と中というように何かと何かの関係を分ける。

具体的に挙げていくなら、
雨戸に隔たれるエイスケとコウ
本物の銃を撃つ必要性のある世界とない世界
窯の中と外
地上と海
いじめっ子といじめられっ子
というように。

徹底的に分けることで、「私」の認識する「世界」と「誰か」の認識する世界は明確に違っているんだということを鑑賞者に感じさせる。
コウとミツヒコが海外派兵から戻ってきたエイスケとの隔たりを感じているのと同じように、私たちも彼らと一緒にエイスケとの隔たりを共有する。
ある一線を超えてしまった人(超えさせられてしまったであろう人)との隔たり。
私の住む半世界と彼の住む半世界は次元の違うところに存在するのだという埋めることのできない広大な隔たりを視覚的に実感する。
そこで鑑賞者は、この映画はこの隔たりを極限まで広げる方向で物語を紡いでいくのだろうと予想するが、日常と非日常のあわいに取り憑かれた阪本順治の映画なのだからそうはいかない。

なんと、日常が非日常に歩み寄り始めるのだ。
ゆるやかな崩壊と再建不能な激しい崩壊という対比の関係でしかなかったコウとエイスケの関係が、ある突拍子もない展開によって融解する。
コウの突拍子もない死によって融解する。
あの突拍子もない死は「団地」でやったいきなり巨大な宇宙船が登場する展開を彷彿とさせる。
あの世がこの世にいきなり侵入してくるあの感覚。

そこで私たちは実感するのだ。
果てしない究極の日常と陰惨な究極の非日常は地続きに存在するということを。
半世界と半世界は繋がっているのだということ。

スクリーンの中とスクリーンの外は繋がっているのだということ。
エイスケとミツヒコが別れるあのバスのシーンで、ミツヒコは「なんか映画みてぇだな」と笑いながら言う。
そしてそのあと、まさに映画的な演出、バスの外と中の隔たりを超えて長い間別れの言葉を言い合う。
あの一連のシークエンスで、去る者と残る者のあわいすら曖昧にしてしまう。
「映画みてぇだな」という一言で「映画内映画」のような概念がスクリーンの中に立ち上がり、スクリーンの中と外のあわいが曖昧になる。

いじめっ子に立ち向かう息子もあわいを乗り越える。
いじめっ子に立ち向かった結果、いじめっ子から「俺も前いた学校ではお前みたいだったから」という言葉を引き出す。
いじめっ子という半世界といじめられっ子という半世界が融解してしまうのだ。

阪本順治が意地悪なのは、あらゆる境目を融解させといて、この世界の一番のしがらみである「継承」という「やるかやらないか」という究極の二元論の問題を、息子に突きつけるところだ。
その阪本順治の意地悪を息子は、「やりたいこととやらなければならないこと」を同時進行で一緒にやってしまうというこれまた突拍子もない決断でひっくり返してしまう。
序盤のコウの炭焼きの長回しと、エンドロールの息子のサンドバッグ打ちの長回しがダブるところが感動的だ。
長回しをダブらせることで、確かに息子へ魂が継承されたことを感じさせる。
息子はサンドバッグを打っているのに。
そうだ、コウの炭焼きだって父への反抗だったのだ。
コウにとって炭を焼き続けることは、殴られた父に殴り返すことと同じだったのだ。
最後にボクシングが象徴的に登場するのは、阪本順治の「日常と非日常をまぜっ返して世界性そのものを殴ってしまえ」という「どついたるねん」から、何も変わっていない、そう、この映画のコウとミツヒコとエイスケのように、昔から何も変わっていない、綺麗事好きのバカなまんまでまっすぐで無骨な阪本順治の熱いメッセージだ。
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