小林太郎

洗骨の小林太郎のネタバレレビュー・内容・結末

洗骨(2018年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

初めて試写会というものに招待していただきました!
以下ネタバレ含みますので…


なぜ骨を洗うのか

"母"を亡くしてバラバラになった家族の時間が、"洗骨"という儀式をキッカケに再び動き出す。

長男は器用に東京の暮らしに馴染み、一般的な成功を収めた。器用すぎるが故に、故郷と現状の暮らしのギャップが大きくなっていき、妻や子供、または自分自身に対してその溝を埋められるずに悩んでいる。

長女は不器用なりに名古屋で美容師を目指すも上手く馴染めず、そんな中新しい命を身籠もる。
不器用が故に強がることしか出来ないまま、自分自身の状況を自分でも受け止めきれていない。

父は自身の経営する工場を仲間の裏切りによって失い、その借金を妻や子供達に返してもらいながら酒浸りの日々を過ごした。
その妻を失った後、妻の布団を敷いた隣でやめたはずの酒を飲み続ける。

それぞれの家族が"洗骨"によって久しぶりの再会を果たし、手探りながら、ぶつかりながら互いを理解していく。

ここまでの時点でも家族愛というところで感動できたし、奥田瑛二さんのとてつもなく素晴らしい演技に涙を流してしまったが、"洗骨"自体もまだ実態がわからず、この映画の本質を掴めていなかった。

それが、物語終盤の"母"の洗骨のシーンで全て繋がる。

埋葬されたままの状態から遺骨になった"母"は白骨化していて、描写としてグロテスクなものだった。
その母を家族が自分たちの手で洗っていくと、とても綺麗な母になっていった。
それはまさしく"母"と向き合う行為に他ならなかった。

そしてその行為自体が、"洗骨"の前日までぶつかり合いながら互いを理解していった家族自身の、それぞれが自分と家族と向き合っていく過程と
全く同じに思えた。

なぜ骨を洗うのか

それは人と真正面から向き合う行為であり、そのためにはまず自分と向き合わなければならないということ。

この家族はそれぞれが大変な苦しみを味わっていたが、その苦しみから逃げている間はまさしく"死んだように生きていた"のではないか。
作中の父の言葉だが、その苦しみは他の家族も同じだったのではないか。

生前、家族を繋ぎとめていた"母"が、死後"洗骨"という儀式を通して、家族を強引にも向き合わせ、またバラバラになった時間を一つにした。

この映画は形のない"向き合う"というテーマを、目に見える"洗骨"という儀式を通して、その壮絶さや重要さを感じさせてくれた。

それだけでも充分感動したのに、最後の最後に新しい命が産まれるという展開にも驚いた。
「命の終わりだけではなく、命の始まりにもしっかりと向き合え!大変だからといって逃げるなよ!」というとてつもない強いメッセージを残して、長男の語りとと共に映画は幕を閉じた。

"洗骨"のシーンまでは沖縄の優しくて特別な空気や住民の方々のおかげでとても和やかな気持ちでいたが、"洗骨"以降の展開については感情が追いつかないほどだった。

実際の洗骨という風習について、様々な側面がある思われる。
この映画をキッカケに詳細を知ったばかりの自分はこの風習をまだ完全に理解出来ていない&それが現代においてどういう位置付けなのかも判断できないが、少なくともこの映画においての"洗骨"は、神秘的で厳かながらも、とても強く優しい愛に溢れたものになっていたと思う。

俗世とかけ離れた世界を、見事に自分たちの心に繋げてくれた名作に感謝!!!!
小林太郎

小林太郎