トッシマー

教誨師のトッシマーのネタバレレビュー・内容・結末

教誨師(2018年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

 死刑囚一人一人の描写と境遇から示唆されるもの、それ向き合う大杉漣の出した答えに痺れる一作。

 舞台は死刑囚を収容する施設の中、教誨のための一室です。ラストの数場面を除き、全てのドラマは、この一室で進行します。机を挟んで向かい合う、牧師の大杉漣と、6人の死刑囚との会話で、この映画の大半は占められます。大杉漣は至って普通の人で、死刑囚達の世間話、身の上話に「大変だったんですね」「そうかもしれませんね」と、一種事務的に会話を進めていきます。一方、死刑囚たちは大変癖が強く、一言も発さない男、異常に情緒不安定な女性、論で言い負かそうとする若者、字の書けない老人、気弱な中年男、気のいい元ヤクザなどなど。それぞれの距離感があり、会話の選択肢を誤ると激昂したり泣き出したり、地雷がどこにあるのわかりません。

 その中の死刑囚、高峰は、論で大杉漣を言い負かさんとニタニタしながら詰め寄ります。教誨師に意味はあるのか、希望を持てぬ世の中で、神がどうとか言っている場合なのかと。大杉漣が「では何故、教誨を希望したのですか」と訪ねると、「暇だから」と。卑屈で人を食って、相手が感情的になると喜ぶ、嫌な男です。しかし、卑屈だからこそ、皆が内心思っている、これは偽善でないのか、意味がないのではないかといった問いをぶつけることができます。大杉漣の反論に対しても、反論を通して、教誨師をやっている自分を正当化しようとしていることを読み取ります。その上、大杉漣が兄への感情を語ると、「自分が救われるために教誨師をやっている」と、大杉漣の葛藤を掴み取ります。

 確かに、大杉漣は教誨を通し、神の愛を死刑囚たちに届けることで、執行を待つ中で希望を持たせんとしています。しかし、一部の死刑囚を除いて、神に許しを求めるために教誨を受けているように見えません。死刑囚たち境遇、葛藤、病気、心の闇を間近で見ていながら、何もできずにいます。一体、何のために教誨を行っているのでしょうか。

 大杉漣はその中で、なにが良い悪い判断せず、ただ死刑囚たちの穴を見つめること選びました。ただ寄り添い、心の闇見つめる。精神病の死刑囚の妄想を共感を持って聞き、言い負かそうとする言葉を聞く。自信がない死刑囚にただ寄り添い、話をきく。ただ聞き、寄り添い、死刑囚のことをわかるため聞く。それが何かを解決するわけではないかもしれません。大杉漣自身の贖罪のために行う偽善かもしれません。ただ、ラストシーンで、大杉漣に抱きつこうとする高峰は、少し気が楽になったのではないでしょうか。世の中変わるわけでもない、たった一人の死に際が多少安らかになったのだから、それでいいんじゃないでしょうか。

 

 
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