ひれんじゃく

ブラック・クランズマンのひれんじゃくのレビュー・感想・評価

ブラック・クランズマン(2018年製作の映画)
5.0
再鑑賞。
「差別されている黒人としての認識を強く持ちそれと武力をもって戦おうとする黒人」「差別の存在を身に染みて知ってはいるがその熱量からは少し身を置いて冷静に事態を眺め、改善を図ろうとする黒人」「差別に関して反感を持っているが、自身の人種への意識があまりないがゆえに距離を取ろうとする白人」「白人が至上で、ユダヤもアジアも黒人もクソ以下だと思っている白人」というグラデーション構造が見えるなというのが見直してて分かった第一の感想。どこに身を置くかによって差別への向き合い方が全然変わってくる。

そしてやはり「差別に対抗するのはもちろん正当な行為だが、熱を持ちすぎるといつのまにか差別をしている側と同じようになってしまう」という警告が前回の鑑賞に引き続き透けて見えたような。ホワイトパワー、ブラックパワーと叫ぶ人たちのシーンが交互に入る演出、そしてカーマイケルの演説を聞いている人たちの顔面を暗闇の中でアップし、それがフェードアウトしていく演出と、周囲の人たちの中であたりを見回すロンの演出には「盲信する人たちが等しく持つ狂気とそれに染まりきっていない人の持つ冷静さ」みたいなものをどうしても感じてしまう。なんだかんだと言いがかりをつけられ酷い扱いを受けることに対して対抗する行為自体は言わずもがな素晴らしいと思っている。だけど「差別をする奴はクソだから殺していい、差別をする奴は蔑称で呼んでいい」という方向に走り出すと危険だし、途端に害をもたらす存在になってしまうのが難しいところだと思う。差別をしている側と同類になってしまうというか。kkk側が殺意剥き出しでやってるのも原因としてはあっただろうけど、武力や憎しみを原動力に差別を無くそうとするのはやはり問題だよなあ。だからといって別に差別主義者に優しくする義理はないし。なんなら滅びてほしいとすら思うし。どうすればいいんだろう。

そしてやはりラストの恐ろしさがすごい。今もなおkkkの系譜は続いているし、差別は終わっていない。どうしようもない。関係者を逮捕して騙された差別主義者のバカさを笑い飛ばして。それでも綺麗にハッピーエンドにせず、そこまで述べ切ったところがいかにこの問題を重く見るべきかを示しているように思えて考えてしまう。アメリカ・ファーストの考え方の根深さ。
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