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ブラック・クランズマンのkentaのレビュー・感想・評価

ブラック・クランズマン(2018年製作の映画)
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演説を聴いている一人一人が映し出されるシーン、演説によってそれぞれが黒人運動を担う主体となる瞬間を象徴しているように感じられる。

コミカルにかつ黒人と白人の対比をうまく使いながら進んでいく。ノックの音で外にでて、ずっと進んだ先に燃える十字架、そしてそこから時空を超え現代へと移る最後が見ものであり、強いメッセージが込められている。現在でも終わりのない差別が蔓延っているといつメッセージ。恐ろしさが、コメディと実際の映像の対比で際立つ。これは現実だ。

差別の恐ろしさ。人間はそれぞれが個人である故に異なり、無数の性質を内に持っている。それにも関わらずわかりやすく簡単に識別のできる要素を恣意的に取り出し、「同」と「他」をつくりだす。肌の色や性別はそのような要素の典型だ。そうして作り上げられた「他」を、蔑み、殺し、スケープゴートにする、それこそが我々の社会の構造に他ならない。だが、その「他」とされる集団に含まれる人々もそれぞれが異なるにも関わらず、一括りに同じとされた上で他なるものとされている?ここでこのシステムを作り上げているもの、それは「同じ」であるということだ。つまり差別とは「同じ」であることによって初めて生まれる。我々はこの暴力性に気づかなければいけない。ではその暴力を止めるために何ができるだろうか。それは「同じ」であることを拒みつづけること、集団に組み込まれることを拒み続け、絶対的他であろうとすることだ。これはエゴイズムのように、特に昨今は思われ批判される。しかし連帯とはおそらく個人主義の徹底によって初めて作られるものである。そうでなければ人々が形を留めず溶け去ったグロテスクな一つの塊にしか生まれず、それはある意味個人の抹殺という一つの暴力であろう。また、絶対的他でありつづけることによって、同化という暴力から逃れて他者と関係できるのである。よって異なり続け、個人として生き続けることは倫理である。我々は自由に羽ばたいてもよいのではなく羽ばたかなければいけないのだ。
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