デヒ

存在のない子供たちのデヒのレビュー・感想・評価

存在のない子供たち(2018年製作の映画)
4.7
一人の家庭数人の子ども6人は優に超えている。 両親は子どもに向かって暴力と暴言を浴びせており、家賃が払えず退去を命じる退去命令書が送られてくる。 家族は偽造された処方箋で麻薬成分が含まれた薬を不法処方してもらい、粉を水で薄めて布につけて刑務所に不法流通させて金を儲ける。 子供たちは学校に行かずに昼夜を問わず、街頭に出て不法露店をして金を稼ぐ。 自分をスパイダーマンのいとこであるゴキブリマンというコスチュームを着た老人は、夜遅く遊園地の前で駐車管理要員として働いている。 カフェで掃除や各種仕事をするナハルという黒人女性は、夫がいなくても一人で幼い息子を育てているが、実際は不法滞在者(難民)だ。 小さな飲み物は1缶1000リビルだが、アルアード市長のテーブルの上に見える数十枚のセーターは全部で2000リビルだ。 数十枚のセーターの価格が飲料水2缶と同じわけだ。 上記の説明に登場するキャラクターの共通点は、社会構成員の中で社会的に力がなく、弱者の位置にある人々、すなわち社会的弱者であることである。 毎日をぎりぎりで生きていくと、それぞれ一般の人とは違う弱点がある。映画はキャラクターを前面に出して社会的弱者であることを露出させ、状況とセリフでメッセージを伝えようとする。 何よりも明瞭に伝える場面は、ゼイン(ゼイン•アル•ハッジ)の独白シーンと法廷での証言だが、私はゼインの父親が言ったセリフが最も記憶に残っている。 ”私たちは寄生虫だ。 誰が我々を気にするのか”。社会的弱者、すなわち下層民を寄生虫に喩えたのが衝撃的だった。 これはポン·ジュノ監督の最新作である『パラサイト〜半地下の家族』を連想させた。 二つの映画の表現方法やジャンルは違うが、社会的弱者を主人公にするという点で同じであり、下層民を寄生虫に例える。

 ゼインは両親を告訴した. 法廷で自分をなぜ生んだのか、また新しく生まれる子どもの人生にどのように責任を負うのかを問う。 父は結婚を後悔すると言い、母は"最善をしているから非難する人は自分自身しかいない"と泣き叫ぶ。2時間の間ゼインを観ていた私は、最初には親の姿が自分たちの過ちを正当化していると思い、すべての責任は親にあると思ったが、結局貧富の差で世の中がこのようになったのではないだろうか。 親にも過ちはあるが、彼らも被害者ではないかと思った。 結局、被害者だけが残る世の中だ。

 映画の背景は実際レバノンの村だ。 俳優たちもほとんど難民村でキャスティングしたという。 映画は重いテーマと周辺人物を観察するような撮影技法およびハンドヘルドフォローイング技法を通じてドキュメンタリー映画のようだと思い、ケン·ローチ監督とダルデン兄弟の映画を連想させた。 ドキュメンタリーのようで退屈でもあるが、表そうとする目標がはっきりしていて、いくつかの過程を隙間なく見せて少年院を出て始まる独白と法廷での場面は、観客にカタルシスを与え、様々な感情が爆発する。 観客たちはゼインに没入し、ゼインのような感情のもつれをしただろう。"愛されたかった"というゼインの言葉には、心が痛むしかなかった。 映画の始まりから最後の壁の前に立つシーンまで、ゼインはいつも無表情だった。 しかし、最後に身分証の写真だから笑えと言われて、ゼインは安心して明るく笑う。 彼の姿を見れば、彼は限りなく弱くて純粋な少年であることが分かる。 このような少年が生きている世の中は残酷だ。

 映画の背景はレバノンだが、このような貧富の格差はレバノンに限らない。 是枝裕和監督の『誰も知らない』や『万引き家族』のような、『フロリダ·プロジェクト』や『パラサイト』のような世界はどの国にも存在する。 共通点は、結局彼らを破局に導いたのは世の中だ。 この世で生き残ろうとする人々のあがきをいつまで繰り返すのか。
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