ラウぺ

バスキア、10代最後のときのラウぺのレビュー・感想・評価

バスキア、10代最後のとき(2017年製作の映画)
3.8
グラフィティ・アート(ストリート・アート)の草分け、ジャン=ミシェル・バスキアの活動の初期に焦点を当てたドキュメンタリー。
バスキアといえば最近話題の例の日本の実業家が123億円で作品を購入したりといったことがちょっと前に話題になっていましたが、なんとなく、イメージ的には「ちょっと前の人」な印象を持っていました。
実際没後30年と聞くとそんなに経っていたのかと驚くのですが、今回映画を観てようやく時代的背景がイメージと同期することができました。

映画はニューヨークにとって暗黒の1970年台末、フォード大統領がニューヨークへの財政支援策にサインしないつもりであるとの声明が流れるところから始まります。
白人富裕層が郊外に移転し街は空洞化、その結果治安が悪化する悪循環が続き、将来への希望を無くした若者はドラッグとパンクに象徴されるアナーキーな文化への傾斜を始めたと指摘。
これがグラフィティの誕生の土壌となったとのこと。

70年代末から80年台初期のニューヨークといえば地下鉄の落書きのイメージですが、この映画にもグラフィティ=犯罪という世間の風当たりに対し、ポップアートやグラフィティのライターたちがどのように「作品」として意識していたのか、というところをそれなりのウェイトで紹介していきます。
地下鉄100輌に「作品」を描いたという人などが登場しますが、なるほど、あの頃のニューヨークの街角に屯する人々のメンタリティ的にグラフィティの存在は不可欠なものであったことがよくわかりました。
今日のバンクシーをはじめとするグラフィティのライターなどの活動はその違法性(=犯罪)としての側面は置いておくとしても、社会に対するメッセージや作者の自己アピールという要素は、アート界だけでなく、ポップカルチャーの草の根的運動として一定以上の役割を果たしてきたことは否定できず、その萌芽としてのバスキアの立ち位置はもっとも根源的な芸術活動の発露の結果として理解できるものです。

本作はバスキアと親交のあった監督のサラ・ドライバーとそのパートナーのジム・ジャームッシュなど当時のバスキアを知るさまざまな人々のインタビューを通し、無名の若者がいかにしてニューヨークの街角から自分のスタイルを形作っていったのか、その背景を解き明かしていきます。
なにしろ当時からバスキアと同じ空気を吸い、同じ芸術的立ち位置を共有するサラ・ドライバーが当時を知るさまざまな人々からインタビューを行い、バスキアと1980年頃のニューヨークのポップアート界を描き出していく本作が、余所者的第三者目線に陥らずにリアルな時代感覚を再構築できるのもむしろ当然といえます。

活動をはじめた頃のバスキアは自身のグラフィティに「SAMO」のタグを付けることで自身のアイデンティティを確立。グラフィティのほかさまざまなガラクタや「MAN MADE」のタグと共に服に色を塗るアート作品なども作っていましたが、当初は非常にシンプルだったものが、徐々に複雑に、抽象とも具象とも異なる複雑で多様なものが同居する後年のスタイルに徐々に変遷していく様子を映しだしていきます。
これらの初期の作品も、かつて同棲していた女性が保管していた現物や資料をもとに再構成されて分かりやすい形で紹介されており、大変印象深いものがありました。

人の縁やさまざまな偶然、時代の流れの変化などの要因が微妙なバランスで作用して、雑然としたニューヨークのカオスの中からバスキアは表舞台に「打ち上げられた」との話とともに、時代の寵児となることはやはり必然だったのだ、との思いを強く持ちました。

職業画家としての第1作の後、バスキアは7年後に亡くなるまで、基本的なスタイルは大きく変わることなく創作を続け、現代アート界の表舞台に立った時点でその作風は殆ど完成していた、といえると思いますが、街中でグラフィティを描いていた若者が、キャンバスに職業画を描くという、ある意味で保守的立ち位置にシフトしてしまったあたり、本人やその周辺のアーティストはどのように思っていたのだろうか?などと思わなくもありません。
憧れのアンディ・ウォーホルとのコラボレーションの一方で麻薬に溺れ、死期を早めたなどといった表層的な面をもってしても、早すぎる成功の一方で、あまり幸福とはいえない人生だったのではないか、などと勝手に思ってみたりもするわけです。
本作が10代の、デビュー前の時代に焦点を絞り、そこを丁寧に再構築してみせた裏側は、この時期こそがバスキアにとってはもっともバスキアらしい時代だった、という監督の想いがあるのかもしれません。
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