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天使のたまごのkensyoのレビュー・感想・評価

天使のたまご(1985年製作の映画)
4.2
「卵は割ってみなければ、その中に何が入っているかわからないものだよ」

シンプルな少年と少女の物語。(と嘘をついてこういう作品を撮ると3年間仕事が無くなる)

例えば小説の挿絵から本文を抜き去って形作られたような、予感が何かの外縁としてではなく、それ自体が核となっているような物語。

難解な物語と評されることもあるけれど、別に難解ではないと思う。
思わせぶりな外殻を開いてもそこには何もないから。
難解っぽい飾りがたくさんついているだけで。

例えばいくつかのメタファーを読み解いて、パズルを解くような楽しみ方をすることもできるけれど、パズルを解いても完成された絵が見られるわけじゃない。
単にパズルは思わせぶりなパズルとしてあるだけで解いた先には具体的には何もない。

でもそれは「悪い」と言う意味ではなくて、例えばミュージックビデオは音楽が主役であってストーリーや辻褄は重視されないのと同じように、この作品は世界観が主役なんだと思う。
天野喜孝のデザインによる世界が主で、ストーリーも台詞も従として在る。

その意味で作品はとてもシンプルだし美しい。

だからその分、(虚ろな物語とバランスをとるように)散りばめられる神話「的」、哲学「的」なモチーフは無害で、頭の中で並べて楽しむこともできた。

孵らないたまごっていうのはつまり叶わなかった願いでもあるし、何も実現しないことで失われない、可能性でもある。

天使とか鳥というのはニアリーな存在で、「希望」だとか「守護」だとすれば、空虚な卵の中に閉じ込めたそれを抱える少女自身が、醒めない夢の殻の中に閉じこもってると言える。

だから他者との出会いは必然としてその卵を破壊してしまうし、少女にはその予感がある(その意味で監督の「シンプルな少年と少女の物語」というのはその通りだ)。

繰り返し意識させられる水面や鏡による境界は、最終的に揺らぐ様に強調されるし、だからこそ禅問答のようなアイデンティティへの問いかけが繰り返される。
(加えるなら、少女が話しかけるガラスに映る像は、焦点を持たない「虚像」だ)

可能性と実現、夢と現実、近しい対比を綯い交ぜにして物語は進んでいく。

捉えられない魚の幻影、「追いかけたってどこにもいない」という台詞はシニフィアンとシニフィエの関係が崩れていて、それは例えばバベルの塔を想起させる。

ノアが方舟から放った鳥は戻らなかったと話す少年は十字架を持っていて、それはこの世界で交わされる新しい契約を意味しているのかもしれない。

水を透かして世界を眺める少女。

長い長い螺旋を描く階段の先に少女は化石化した希望の痕跡を見ているけれど、廃墟の中に少しずつ漏れ出している水が、水位を上げていく。

現実への回帰は夢の世界の終焉を意味するけれど、夢からは小さな希望がいくつも生まれる。

放された鳥が帰ってこなかったという海の向こうからは、痕跡としての羽根だけが流れ着いていて、新しい契約が成される。

こんなふうにイニシエーションの物語と捉えると、これはものすごくオブラートに包んで聖書モチーフで飾り付けた「タクシードライバー」なんじゃないかっていう気もする。
(周辺情報を何も確認しないで好き勝手言っているので、大外しかもしれないけれど)

押井監督はこの作品で「訳がわからないものをつくる」と評価されて向こう3年間全く仕事が来なかったそうだけれど、その後の作品を観るに、評価そのものは妥当で、業界内のサバイバビリティの向上で現在に至るんじゃないかという気がするな。

個人的には後年の作品よりもストレートで好きだった。
(後の作品でどんどんダダ漏れになる、老人の愚痴と自己憐憫が耐え難い、というのもあるけれど笑)

少年の持つ十字架とか、 よくわからない乗り物とか、80年代ぽい虚飾的なデザインも良いなと思ったし、天野喜孝の描く生気のない瞳や終焉後、という世界も良かった。

…押井守作品は、見るとなんだか矢鱈と分析して文句(?)を言いたくなってしまうという不思議な魅力がある気がする…笑
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