夢子

ランガスタラムの夢子のネタバレレビュー・内容・結末

ランガスタラム(2018年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

RRRからインド映画に興味を持ち、ラーム・チャランの出演作の中で最もビターな味わいと聞いてめちゃめちゃ観たかった作品。
チャランの誕生日記念映画上映会にてこちらを上映すると聞き、英語字幕にビビり散らしながら鑑賞。
個人的に、英語字幕で観られたことが大きな意味を持つ映画でした。観れて本当に良かった。鑑賞して1週間以上たったけど、ずっと心に残ってて重苦しい気持ちになっている。
見終わったあと、同行してくれた友人に「失ったもの返ってこなすぎ…」と呻いた。心がボロボロ。ちょうどラーム・チャランに心をボロボロにしてもらいたかったので最高です(土気色の顔で)

以下すべて、読める単語をかろうじて拾ったりしつつほぼほぼラーム・チャランの演技に注視していたオタクのだいたい初見感想です。
全然うまく言語化できた気がしないけど鑑賞から半月も経ってしまったので…

舞台は1980年代インドの架空の農村、ランガスタラム。
砂埃の舞う乾燥した気候。カーストに基づく身分差が息づき、政治は腐敗し、村長が敷いた圧政により不当に財産を巻き上げられ、村人達は皆貧しい。
チャランが演じるチッティバーブは、無邪気で陽気で直情的な男。
腕っぷしがたち、難聴で、人の声が聞き取りづらい。相手の唇や、身振り手振りから会話の内容を推測して話す。
自分の障害のことを全く気に病んではおらずむしろ便利に使うことすらあるが、見栄を張りたい気持ちもあって誰にでもオープンにしているわけでもなかったり、少し複雑だ。

OPの曲が強烈に爪痕を残している。
灼熱の太陽の下、砂埃とゴーダヴァリ川の水面を蹴り上げながら、村人達がランガスタラムの村の歌を陽気に踊る。
楽しげに生き生きと踊るチャランの笑顔が眩しくてかわいい。凄いかわいい。マスクの下で笑顔がこぼれてしまう。
明るい調子の曲の歌詞字幕は、よく見るとこんなようなことが書いてあるという。
「ランガスタラム。ここではみんな操り人形。
聞こえない音に合わせてダンスを踊る。
見えない手に操られ、お化粧もされない玩具の人形。」
ランガスタラムとは、舞台を意味する言葉だそう。

最初に英語字幕で観てよかったと書いたのは、言葉がうまく聞き取れず、相手や周囲の人々の様子から会話内容と現在の状況を推測するチッティと、言葉が理解できず、字幕の中のかろうじて解る数少ない単語と登場人物の様子から物語の内容を推測する私の状態にリンクするものがあったからだ。
理解に限界がある時、目に見える表面的な情報で判断するしかなくなる。
ランガスタラムの歌の不穏な歌詞を理解できず、楽しそうなチャランや村人達を観てニコニコ笑っていた私と、家族が侮辱されているのだと理解できず、楽しそうな周りを見て一緒になって笑っていたチッティと。

さっきも言ったけど、この少し短慮だが素直で明るい村男チッティを演じるチャランが、凄まじくかわいい。砂埃の中で元気に跳ね回る様はヤンチャな子犬みたいだ。執念深く、借金は返してくれない子犬だが。
最初から最後まで、チッティの駄目なところは大小たくさん描かれ続ける。わがままで子供っぽい乱暴者、なんならいいところより駄目なところの方が多そう。
それでもそんなところも全部含めて、どんどんチッティのことを好きになってしまう。
劇中チッティが、補聴器を付けるのを拒むシーンがある。見るからに障害があると解る、こんなもの無くてもうまくやっていけるということだろう。
むしろチッティは、そうして社会との接続を制限し理解を制限しているからこそ、都合の悪い情報やしんどい現実をシャットアウトし、裏表なく陽気に生きていられている。
チッティは障害を利用することもあるが、やはり社会的弱者であり、アウトサイダーなのだ。聞こえないのをいいことに、チッティには日頃から数々の言葉の暴力が降り注ぐ。そうした差を埋め合わせるかのように、彼のコミュニケーションには直接的な暴力が当たり前に存在する。自分や大切な誰かを傷付けようとするものを絶対に許さない。言葉で他人と対等に渡り合えない彼にとって、加害に対して対抗する手段は徹底的な暴力になる。
チッティは、自分が愛するものへは無邪気に純粋に愛情を注ごうとする。そして、自分を損なおうとするものには、爆発的で執拗なまでの怒りをぶつける。チッティの無垢さと暴力性は、表裏一体の1枚のカードだ。
聞くものと聞きたくないものを選別するチッティの行いが、選択によって維持されていたチッティの無垢さが、圧倒的な加害を前にした時、ラストへ向けて取り返しの付かない暴力へと転がり落ちるように転換されていく。
かつてキラキラ光って表情を変えたチッティの瞳が、狂おしい怒りに引き攣り見開かれる。純粋さにそのまま接続される狂気。
陰と陽、かわいいと恐ろしい、ラーム・チャランという役者の輝きが全編に渡ってこれでもかと詰め込まれている。

ランガスタラム村という舞台において、人々は目に見えないものに操られている人形だ。
映画の冒頭ではこれを、支配者に操られている農民たちの話なのかと思っていた。
しかしクライマックスに至って、このお話の登場人物達は、支配者も農民も、誰もがみんな操り人形だったのだと思わされる。

聞こえない音楽に合わせ、練習もさせてもらえないまま、目に見えない手によって誰もがわけも解らず翻弄され生きて死んでいく。
では、操り手とは誰なのか。
ランガスタラムの、舞台そのものがそうだったのかもしれない。
舞台を支配するルールこそが見えざる手だったのかもしれない。
"ルール"は無数にある。あるいはカースト制度、あるいは障害者差別、あるいは貧富や教育の格差、性差別、同調圧力。あるいは未だ名前を与えられていない無数の何か。それらが人の一生を左右する。ほとんどの場合、本人すら知らないところで。
このランガスタラムで、仕組に支配された板の上で、自分の意志で何かを選択している者など本当は誰一人としていないのだ。
全てを総括する、この舞台の見えざる支配者。複雑に綾なすそれにはおそらく、現代においては"社会構造"という名前がつけられている。
夢子

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