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僕はイエス様が嫌いのfmのネタバレレビュー・内容・結末

僕はイエス様が嫌い(2019年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

邦画なのに「イエス様」という単語がタイトルに入ってくるところがインパクトあると思ってレンタルして観ました。
ストーリー、画面の切り取り方、フィルター、全てが静謐で悲しい美しさを持つ作品だと思います。

作中の「イエス様」は仏教のお釈迦様、神道の神様であってもきっとこの映画が伝えたいテーマはあまり変わらないのではないでしょうか。
しかし、日本という国は仏教や神道が(どちらかと言うと)強いお国柄です。
ですから、「キリスト教」と聞いて結婚式の牧師さん、チャペルをついイメージしてしまう、あまりキリスト教のことを知らない鑑賞者にはきっと転校したてのユラの「神様ってなんだよ??」「なんでいるかも分かんないような奴にああも熱心な様子を見せないといけないの?」とでも言いたげに祈りの手を組まない様子に共感しやすいのではないでしょうか。

★【タイトルについて】
さて、ユラの目の前に現れた「イエス様」は
手乗りサイズでちょこまかと動き、
ユラの子どもらしい遊びにも付き合ってくれる、
なんだかコミカルで親しみ易い神様です。
美術の時間に習ったような哀愁を帯びた眼差しの男性でも、聖なる存在すぎて目を逸らしたくなるような厳格さもありません。
こんな距離感の近い神様が些細な願いを叶えてくれるのですから、ユラも段々神様の存在を信じてお祈りをする様になります。
この過程を説明口調なモノローグ・セリフで演出しないところ、演じ手の佐藤結良君の仕草と表情だけで演出しているのでリアルに少年ユラの心情の移り変わりを刻まれます。

なのに……、
肝心な時に「イエス様」はユラの願いを聞き届けてくれませんでした。それどころか姿も現してくれませんでした。
きっと切実に祈っていたユラにはそれまで近い距離であっただけに急に遠のいた気持ちになったでしょう。
再び姿を現した「イエス様」を叩き潰すほどに。
でも、もう「イエス様」の存在を認めてしまったのだから彼はもう「信じない」とは言えません。
そんな葛藤が込められた「嫌いだ」なんじゃないでしょうか。

★【エンディングと伏線について】
この「イエス様」を叩き潰すシーンは結構衝撃的でここで話を終わらせる手もあったと思います。
ですが、
この作品の終わりでは、
冒頭部で祖母が語った何故かおじいちゃんは障子に穴を開けちゃっていたのよ」というユラが訝しんだ祖父の行動を、ユラ自身にさせています。

この伏線の回収はミステリーの伏線回収のように爽快な類の物ではありませんが、代わりに視聴者に更なる問いかけを投げかけているのだと思います。
ユラの祖父が覗き込んだ穴の先の情景は何が広がっていたのでしょうか。あの無数の穴の数は彼が長く生きてきた分だけ抱えてきた理不尽を思い出とするために飲み込んだ「想い」の数を表しているのでしょうか。
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