蛇らい

この世界の(さらにいくつもの)片隅にの蛇らいのレビュー・感想・評価

5.0
2016年公開当時、止まらないこの涙は自分の中のどこから出てきたのかと解らなくなるほど、頭が追いつかない感覚に冷静ではいられなかった。

これはとてつもない作品が生まれてしまったのかもしれないと悟ったとたん、歴史そのものを目の当たりにできた幸福感に包まれたのを今でも鮮明に覚えている。何がどう作用し、こんなにも自分を奮い立たせるのかと考えながら何度も見返した。

2016年版は、すずさんという等身大の女性を通し、日常の生活を戦争に侵されていた時代が確かにそこに存在していたこと、家の灯りの数だけ人々の想いがあったことを反戦というテーマだけに注目するのではなく、紛れもない事実として明示している。

本作は2016年版のあのセリフ、あのシーンにそれぞれのキャラクターが秘めていた想いを紐解くような原作からのシーンを追加し、当時の時代を生きたすずさんを中心に、ワイドな視点からより私小説的でパーソナルな側面から時代を捉えている。

周作の「過ぎた事、選ばんかった道、みな覚めた夢と変わりやせんな」「すずさん、あんたを選んだのはわしにとって多分最良の選択じゃ」というセリフ。一見すずさんへの真っ直ぐな言葉に聞こえるが、追加シーンにより全く別の意味を孕んでくる。

周作にとってリンさんという女性の存在の大きさがすずさんを上回っているのかもしれないという事実が浮かび上がる。それは言葉だけではなく、周作の机にはすずさんがお嫁に来てもなお、白いりんどうの花が生けてあるのことで表されている。また、リンさんの代用品である可能性を感じ、男性というカテゴリーで見た周作という人物に対し、嫌悪を抱く。

また、家に焼夷弾が落ちて火が部屋にが広がるシーンですずさんは消すという選択をし、原爆投下の日には実家に戻らない決断をする。晴美さん、リンさん、テルちゃんの笑顔の容れ物になるという覚悟に径子や周作、人々への愛を感じ、起きたすべての出来事を受け止めようとする強さに感涙した。それは、リンさんに茶碗を渡しに行ったことでも感じられる。自分以外の想いを届けるべき人に届けられるのが自分だけならば、届けるべきではないかという強さにも感服した。

呉へお嫁に来たものの、すずさんの心の寄る辺はなく、夫の中にはリンさんの存在がある。呉へ来なければ哲と一緒になれていたかもしれない。呉へ来なければ晴美さんは生きていたかもしれない。反対に広島に残っていれば、親友になるリンさんに出会えていないし、原爆で自らも死んでいたかもしれないし、周作はリンさんをあきらめず、遊郭から掬い上げて一緒に暮らし、空襲で死ななかったかもしれない。そのもしもを思うと胸が締め付けられる。

たんぽぽの綿毛のように風に身を任せ、たどり着いた場所に根を張る。風任せ、気まぐれなようでいて、実は揺るぎない想いで動いている。呉にいなければ感じなかった嬉しいこと、悲しいこと、どちらもすずさんにとって大切な財産であり、すずさんをそうさせるのは必然なのである。

人生の選択に関する「もしも」意外にも、あなたがわたしで、わたしがあなただった可能性がすぐ近くにある。すずさんが、リンさんやすみちゃんであった可能性もあるのだ。そう考えるともはや人生において、自らの意思で進む方角に爪先を向けることができるのは与えられた命の中だけで、本質的な選択をするということは不可能なのかもしれない。

追加シーンで重要な役割を果たすのは、遊郭で働くテルちゃんとリンさん。彼女たちの演技もこれまた素晴らしい。

すずさんが呉へ嫁に呼ばれた理由や、テルちゃんが若い水兵にくくられて堺川に飛び込んだことにより風邪を引き、その延長の肺炎で亡くなる。この2つの事例で男性の身勝手さ、個人的な思い出を美化することの行く末がいかに残酷なことなのか静かに語られる。

花澤香菜の「冷たかあ」「美味しかあ」「そげん南の島がよか」「よかねえ」という短い単語の一字一句の衝撃たるや凄まじい。一瞬でテルちゃんという人物への愛着に変わる演技だ。

その後、テルちゃんの存在していた証明としてリンさんからテルちゃんの紅を渡される。しかし、すずさんが戦闘機から被弾しそうになったシーンでその紅は壊され粉々にされる。リンさんに渡した周作の想いが込められた茶碗も空襲で壊されている。

物は壊れる。いくら想いを込めても。ならば生きている自分が失くした大切な人々を覚えていなければならないのではないか。それができるのは自分だけなのではないかという悟りがすずさんを導く。誰かの分まで生きるみたいなおこがましい話ではない。せめてそこにその人の存在が、想いがあったことを生きることで証明する、それだけで生きる意味、居場所として充分過ぎる理由になる。

それはこの作品の意義とも重なる。あの時代に生きていた人々の暮らしと想いがそこには確かに存在していたと後世に伝えていかなければいけないのだ。

リンさんがすずさんにとってどういう存在だったかについて、すずさんを演じたのんが舞台挨拶で重要なことを語っている。

「すずさんは呉に来てお嫁さんの義務を果たすことで、自分の居場所を見つけようとする。そんな中でリンさんは呉に来て初めてすずさんに絵を描いて欲しいって言ってくれた人なんですよね。」

「だから自分の持ってきたもの、自分の中にあるものを認めてもらえたというところを心の拠り所にしていたんじゃないかなって思う。」

もしかしたらリンさんはそんなつもりはなかったかもしれない。それでもすずさんの存在を肯定し、居場所を教えてくれたことは揺るぎない事実で、人対人の中に生まれる美しい心根。この人を大切にしようとする純粋な気持ちをくれた人、それがすずさんにとってのリンさんなのだ。結果として周作を心から愛するようにもなれた。それをここまで繊細に、すべてを包み込むような演出でやってこられると涙は止められない。

やはり、片渕須直という偉大な監督の人間性がそうさせるのだと思う。様々な声の役者がいる中で、セリフの温かみは一貫した温度と色味を感じる。例えば、哲の「笑うてわしを思い出してくれ」や、すずさんの「治るよ、治らんとおかしいよ」などテンションの明らかに違う場面のセリフでも、明らかに同じ温度の聞こえ方がする。登場人物の言葉が物語の外へ向けられているように感じられ、セリフが染み入る演出がされている。

また、インタビューでは日本のアニメーションについても語られている。

「日本のアニメーションは、辛い現実から目を背けるために夢を見たがるお客さんへの迎合があまりにも過ぎている。」

「じゃあ、自分の人生が見出せずに五里霧中のように生きている人が多い中で、文学や映画は「都合のいいもの」ではない何を提供できるのか。それは「こういう例もあるんだよ」「こういうことだって起こりうるんだよ」ということを語り残して並べてくれることだと思うんですよ。それが文芸的なものの役割だと思います。」

Special thanksの欄に高畑勲の名前もあるが、どこまでも高畑イズムを継承している。良くも悪くも起きたことがすべての世界から何かを感じ取り、考えられる作品でなくてはいけない。意味を用意した作品には価値はない。まったくその通りだと思う。それらを面倒だとし、手っ取り早く触れられる作品に需要が集中、飽和し、堕落しているのならば、現在のアニメーション好きをある程度切り捨ててでも、概念の再構築しなければならない場面に差し掛かっているのではないかとも思う。

日本のアニメーションの歴史の中で重要な一本。未来に残すべき最高の一本。個人的な不動のオールタイムベスト。

すずさん、あなたに会えてよかったよ。

隠れ大塚康夫少年の姿も必見です。
蛇らい

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