カラン

ROMA/ローマのカランのレビュー・感想・評価

ROMA/ローマ(2018年製作の映画)
4.0


たしかにこの映画はまるごと『ア・ゴースト・ストーリー』であり、アルフォンソ・キュアロンがゴーストになっているのは、なるほどと思いました。『ゼログラビティ』を連想させるジョン・スタージェスの映画が映るところで、ああ、そこにキュアロンがいたんだって気づかされますが。ここは暖かい気持ちになりました。

靄のかかった展開で、諸々の危うさを多いに孕んで終わるこの映画には、いまいち共感しきれないって私も思いました。ただ、クレオへの配慮から、いまいち共感できないっていうのは、私見ですが、たぶん監督が企図したものだと思うのです。つまり、これは共感できないと思わせる映画なのだと思います。私たちにはクレオを抱きとめることは、不可能と思わせる映画なんじゃないでしょうか。平たく言えば、何かクレオと私たちの間に超えられない壁があるんだと認識させようとする映画なのではないか。

私は、モノクロームの光が乱舞する波の打ち寄せる浜辺で、彫像の群れと化したクレオと馬鹿丸出しの白人富裕層の家族のショットは、大変美しいし、同時に、同じだけ大変嘘くさい絵であると感じました。

クレオはメキシコの貧しくて虐げられる有色人種であり、ここに壁があるんですよね。この愛すべき家政婦を思い出すなかでキュアロンはゴーストと化すわけです。ここで、そもそも彼がゴーストになり、クレオから切り離されてしまっているのは、つまり、アンチ共感の壁ができてしまっているのは、彼自身が裕福な白人だからだ、ってアルフォンソ・キュアロン本人が思っている証なんじゃないでしょうか。だから、当然、あの波打ち際の抱擁の彫像群のショットは、欺瞞、でしかない、ということになるのではないでしょうか。ウソの抱擁なんじゃないでしょうか。

だから肌の色という虚構を、映画という虚構の中でも、キュアロンは超えられていないのではないか。あやうく、アルフォンソ・キュアロンは思い出のクレオと彼自身を分け隔てる壁を、致し方ない社会的現実なのだと認めてしまい、私たちにもクレオを抱擁することなどできないのだと認めるように、誘導しようとしてはいないでしょうか? 私は世間知らずのノンポリ文学バカの理想主義者なので、そんな風に感じるのです。

クレオのモデルになった実在の家政婦さんに捧げたこの映画で、当の本人がこの映画の描写を喜んでおられるそうです。アカデミー賞も取ったわけです。でも、私はこの映画の虚構性がどうも許せません。その虚構性が共感を拒み、安らかに、幸せに、クレオを私たち鑑賞者が抱きしめることが出来ないから、ではありません。ここがあなたの感想と、私が感じたことが微妙に異なるところです。

この映画が共感にアンチであることに対して、私自身がアンチである理由は、肌の色とかメキシコの今に続く社会的矛盾とかいう、それ自体私の立場からすると純然たる虚構に過ぎないものに、アルフォンソ・キュアロンの想像力が負けているように思えるからなのです。私はこの映画の虚構性よりも、『鏡』というこの『ROMA』と同じく半自伝的な映画で、抱きしめがたい母親を空中浮遊させるというタルコフスキーのウソを信じたい、超えられない壁を超えていく、そういう彼の想像力を信じたいのです。『サクリファイス』なんかじゃありません。

オープニングの汚水の作りだす波紋とうたかた、エンディングのがらんとした宙。こういった茫然となる美的なイマージュの空虚さは、クレオからの見えない離脱を、張り裂けるような距離を示しているのでしょう。それはキュアロンと家政婦が生きたメキシコ社会の孕む空虚さなのでしょう。その痛みには共感します。でも、クレオと僕らを隔てるのが、肌と血と貧富と政治というところに、私のような世間知らずは、共感できないのです。

そんなにクレオが愛おしいのなら、タルコフスキー のようにクレオを空に飛ばしてみろって思うんです。無機質に遠い空を横切る飛行機を見上げるだけのこの変わらない現実と、そんな人間世界には無頓着な天空からの空撮の対比で、理想と現実、愛と抱擁の不可能性を対比してみせて、結局、クレオを置き去りにする、その大理石のように冷ややかなフレームとモノクロームは、肌の色の違いを隠しながらこっそり容認するマスクであり、陳腐なウソを変わらない現実に変換するイデオロギーの装置なんじゃないかな。そんな虚構を自ら作るというのは、あまりに今さらなブルジョワ的発想じゃないか、そんな風に感じたのです。
カラン

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