キュアロン監督の幼いころの女中兼乳母であったリボさんにあてた映画
脚本もなく、彼の記憶のみを頼りに徹底された時代考証のもと作られています。
役者もほとんどが素人の方なのでやはり「思い出重視!」な作品ですね
舞台のローマはイタリアのローマではなく、メキシコにあるコロニア・ローマのこと
最初のシーン、タイルの上に水がサーっと流れるシーンから始まりますが、しばらくこんな感じで大きな出来事の起きない、起伏のない物語の展開が続きます。
ただそんな中にしっかりと後半への伏線が貼ってあり、気を抜いてると後半に響きます。
そして後半にかけて体感速度がかなり速い、物語の進みが速いのではなく、あくまで肌感覚として、どんどん引き込まれていく感覚です。
全編にわたって描かれているものの一つはもちろん主人公クレオ(ヤリッツァ・アパリシオ)の女中としての生活
妊娠したクレアに対してキュアロン(明言されてないが、間違いない)の家族が親切に対応してくれているので分かりにくくも見えますが、新年パーティでの扱いから、先住民の彼女たちには白人たちとの間に格差があります。
そもそも、妊娠して彼氏に捨てられたクレアに、キュアロンのお母さんが優しいのは自分も旦那との関係が上手くいっていないからで、前半はかなりきつい当たり方もしてましたしね。
ではこの映画を自分の乳母にささげた意味は何なんでしょうか、となるとやはり贖罪の意味合いが強いように感じます。
『パラサイト』で金持ち一家の末っ子が外でテントを張り、地下家族のモールス救援信号を受け取りながらも何も行動を起こさないシーンがありますが、
小さいころに貧困や差別といった問題が身近にあったとしても、それを認識するのに留まり、行動を起こすことはできないのが普通なのではないでしょうか。
大人になって振り返った時に初めて抱く罪悪感のようなものを感じました。
ただそれだけで終わらず、溺れる子供を海から引き上げるシーン(『ゼロ・グラヴィティ』のラストシーンと同じように)で、しっかりとクレア、キュアロン一家を再起させる、生まれ変わらせる
シンプルながら感動的です。
また、特徴的なのはカメラワーク
予定していた相棒カメラマン、エマニュエル・ルベッキがダメになったので監督が自ら撮影したのも有名ですが、
かなりのワイドレンズで被写体の全身を捉え、さらにかなりの長回しでカットの切り替えも少なく、ほとんどパンかドリーで撮影してます。
映画もあえての白黒ですが、そこまでコントラストがきつくないような印象で、カメラワークも相まって映画全体のまったりとしたような雰囲気に見事にマッチしています。
メイク・ドキュメンタリーも併せて観ると尚良い!