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記憶にございません!のharunomaのレビュー・感想・評価

記憶にございません!(2019年製作の映画)
1.5
説話を超えていくような、不可思議な演出やショットが心地よく、観ているもののショットの予想を裏切るおもしろさがある冒頭は。
シィチュエーションと予定調和の舞台にいたはずの三谷が、ここでは、今まさに撮られたであろうアイディアによって、映画の原理的な歪さとメディアを含めた人間の関係性を浮き彫りにさせる。過剰に不条理なる世界に生まれ落ちたのは、記憶にございませんからではなく、そもそもが異質なのだ、映画自体が。
パジャマの総理大臣と地球防衛軍なる警官姿の田中圭が遊んでいる、そこそこ真剣に。あらゆるキャラクターはおもしろく、珍しくファンシー寄りの斉藤由貴もかわいい(みんなパジャマ)。半ば幼稚な欲望が、立場設定のシステムの枠組みを変えて前進していく。女優も女性映画も撮れない三谷は、ゲームの規則に到達するはずもない。カメラマンはずっと山本英夫だったか。清洲会議もおもしろかったが、しかし長い。だいたい15分くらいのスパンで飽きる。というか開始15分までがおもしろかった、映画館で観たら違っただろうか。何の計算もなくだらだらと2時間を超えるあたりに三谷の悪い低能さを感じる。ところどころ仮装コントが入るのがきつく、喜劇映画に負けるしかないコントの寒々しさが痛い。
(映画の歴史)の記憶がございません、という三谷の墓は台場付近の小島で十分なのだろう。シン・ゴジラの方がおもしろいのは言うまでもない。忘却という防衛などありえるのだろうか。死者の顔は映画には映らない。喜劇は戦時下を生きなければならない。中井貴一は佐田啓二とどう切り返されるのか。佐藤浩市と並んでしまっては、もう亡国のイージスを見直してしまう。この映画、というか三谷はいつまでも茶番だ。地獄を眼まで浸して歩いた老人たちの嘘、でなくとも老害とは、意志なき楽観のこのような人物を言う。そんな国は滅んでしまっていい。いつも通りの堕落と腐敗が映っている。ひとつの身体をくれ。
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