私は『フランシス・ハ』のグレタへの自己投影がすぎるのだけど、監督作になると気持ちがスーンっとなる。たぶん、家族に対する信頼というかストーリーの土台にしっかりとある見えない結びつきを、私はグレタとは共有できないからなんだと思う。
サーシャ・ローナンのチャーミングさや軽やかなユーモアが私にとっては整いすぎていて(ねずっちです)ジョーの存在を遠く感じる。
観ながら、観終わって「なんで今『若草物語』なのだろう」と思った。それは撮る側というより、この作品が素晴らしいと言及する人たちに対する問いなのかもしれない。あるいはプロデューサー。
「なんで今この作品が評価されるのか」という違和感には、出演する人達がほとんどホワイトである、シスであるという作品に対する抵抗のなさ(原作に忠実であるとはいえ)にもある。
ベスのことをもっと知りたいと思った。
"女"にとって「結婚すること」と「生きていくために必要なお金」を切り離すことの難しさは現在も存在する。
私は結婚しないだろうからって、結婚したって養う義務は発生しないだろうって低賃金で働かされる未婚の女だ。
悔しいエンディング。たとえ皮肉とはいえ描き方の軽やかさにも私はついていくことが出来なかった。
自分の作品のあり方を天秤にかけなければいけない場面で私はきっと泣くし、たくましく微笑みたくない。