hs

ぼけますから、よろしくお願いします。のhsのネタバレレビュー・内容・結末

3.0

このレビューはネタバレを含みます

 私がこの映画を観てまず印象に残った演出はホームビデオ的な撮り方をしていることだ。映画は基本的に監督である信友直子自身がカメラを持ち、家族を撮影している。信友のカメラを通して夫婦間の愛や家族の絆、認知症という病がどのようなものかが伝わってくる。このカメラは信友の目のような役割をしている。私たちは彼女の目を通して彼女の父と母を観る。映画の中の時間が過ぎるにつれて彼女に感情移入をしていく。まるで本当の親を観るような感覚になり目の前で起こっている出来事が他人事とは思えなくなっていく。母の変貌に心を痛め、戻らない日常を愛おしく思う。これが彼女のしたかった演出の一つなのではないか。信友がカメラを離し、映像に入って来た時カメラは彼女の目としての機能を失い、ただ私たちの目としての機能を残す。どこか盗撮をしているような画角で自分が赤の他人の家庭内を深く覗いているのだということに気付かされる。彼女の覚悟がこの画角から表れている。
 彼女の「私がやるけん」という言葉に注目したい。これは娘としての自我がドキュメンタリー監督という仕事で作った殻を突き破った時に出てくる言葉だ。彼女は今作ではドキュメンタリー監督であり、撮影対象の娘でもある。この2つの立場の間で揺れる葛藤をこの言葉で表現したかったのではないか。この映画の撮影対象には認知症の母、母を支えたいと思う父だけでなく、彼女自身も認知症の母を持つ娘として含まれるのではないかと思う。あの画角と彼女の出演はそれを示唆するためにも必要だったのではないか。
 他にも印象に残ったシーンとして母が買い物をしたシーンが挙げられる。お店の人が母に「撮られていますよ。」と言う。それに対して信友は「母の記念で回しているんです。」と答える。なぜドキュメンタリー撮影をしていると言わなかったのか。これは彼女の、カメラに入った人には構えずに自然体でいて欲しいというという意図があったからなのではないかと思われる。
 個人的に好きだったシーンは最後に祖母がうどんを食べるシーンだ。ちまちまうどんを食べる母に哀愁を感じながらも、心の中で笑みがこぼれた。何故最後がこのシーンだったのか。私は、「笑いと哀愁というものは密接に結びついていて両者を分けることはできない。私たちが生き延びる唯一の方法は、私たちの困難を笑う事である。」ということを信友が視聴者に伝えたかったからなのではないかと思う。このドキュメンタリーのジャンルはこの最後のシーンによってコメディになった気がする。
hs

hs