紅蓮亭血飛沫

フロントランナーの紅蓮亭血飛沫のネタバレレビュー・内容・結末

フロントランナー(2018年製作の映画)
3.3

このレビューはネタバレを含みます

人々が次期大統領候補へと望むものは、一体何なのか。

清廉潔白さ?
人々を導けるリーダーシップの素質?
気高さを感じられるルックス?

恐らく、それら全部を兼ね備えた“オールマイティ”な人柄が大統領に求められる基盤だったのでしょう。
それは“次期大統領候補”という立場に就く人間となれば尚更で、国を背負う第一人者に求められるのは、ゴシップ・スキャンダルとは無縁な“穢れの無さ”です。
何らかの不祥事を起こした人を、国の代表として定着させるのは国民としても、どこか歯切れの悪さや世間体を意識してしまう。
つまるところ、手痛いしっぺ返しを食らうのは、誰だって避けたい。
期待すればするほど、それが裏切られてしまった際の心の傷は深みを増してしまう。
ともなれば、その自己防衛手段として、人は無意識に相手を疑う事を選びがちになります。
後々になって味わう後悔・苦痛から身を守れる、簡単な行為ですから。
そんな時、報道によってその疑いに拍車がかけられた場合、人々はどうなってしまうのか。

本作で描かれた“実話”は、人が人を疑う事から生じる信用性の欠如と、それ故にどんどん泥沼に嵌っていく次期大統領候補の行く末。
一度付着してしまったゴシップ・スキャンダルに翻弄される当事者と、報道の在り方と癒着関係にある大衆の姿に悶々とされる一作です。


主人公・ゲイリーは掲げた政策や活動からなる穢れの無さ、見映えのいいルックスからも高い支持を得ており、もう少しで大統領の座を手に入れられる程の高い人気を誇っていました。
そんなある日、ゲイリーが女性と密会しているというスキャンダルが報じられ、ゲイリーへの信用、立ち位置が揺れ動かされていく事に…。

と、即座にこの事態を鎮静化させる手筈を整えるべきだったゲイリーですが、本人はというと「そんな事に構う必要ない。とにかく選挙だ」とこの問題を軽く見ていたのが致命的でした。
今の社会におけるマスコミへの対処が出来ていなかった、数十年前の社会の価値観のまま選挙活動に勤しんでいたため、この事態を一層悪化させてしまったのです。
ゲイリーの主張としては、議員・大統領候補だからといって「個人のプライバシーは尊重すべきだ」という断固とした主張があり、家族や友人と買い物に行ったり外食するだけで、マスコミがネタ稼ぎに嗅ぎ回ってくるようなのは失礼だ、とマスコミの在り方を否定していました。
その上、政治家としての地位を左右させるような誤った報道など論外、と痛烈。
ですが、大衆はマスコミを通じて得られる情報にいとも簡単に踊らされてしまっているのが現状で、今となってはマスコミは個人の価値観を大きく歪めてしまう力を持っている…。
これがゲイリーの致命的なミスでした。
元々ゲイリーは数十年前から活動していた議員で、不倫といったスキャンダルが、政治家の生命を左右するほどの大事にはならない時代を生きてきた身。
好意的に捉えれば「人々はそんな事でいちいち自分を陥れたり、失望するような事はしない」という人々を信頼している、自分に自信があるからこその意識の表れとも言えますが…悲しい事に、人々はそうシンプルに誰も彼もを信用していません。
これは今の時代にも言える事で、芸能人・タレントが不倫を行っていた事が発覚すれば忽ち大騒ぎになり、当事者が「誠に申し訳ありませんでした」と謝罪するのが当然の成り行きとして凝り固まっている。
まるで、その当事者内で解決すればいいような事をわざわざ“一種の娯楽”として人々の中に放り込んでいるかのような、個人のプライバシーを丸々エサにしている風潮が見られます。
つまるところ、こういったスキャンダルは、大衆にとっては大きな“娯楽”として定着してしまっているんですよね。
一度火が点けばどんどん燃え盛っていくかのように、スキャンダルは瞬く間にその人へのイメージを一転させてしまう力が、娯楽として外野から面白おかしく鑑賞出来る立場にあります。
スキャンダル報道によって得をするのはマスコミではなく、むしろその報道を受け取ってイメージを形成していく大衆にある。
それを見誤ったのがゲイリーの致命的なミスでした。

そもそもこのスキャンダル自体、その場面を目撃したマスコミ関係者を“取材不足”としていくらでも糾弾出来る機会はあったんですよね。
ゲイリーの家に裏口があった事を知らなかったり、見張り中に寝ちゃってたり…と証拠が幾分か足りないにも関わらず、「これは特ダネだ!」と意気込んで早々に報道してしまった。
ゲイリーがこの報道に対して即座に「あれはデマだ」と声明を上げていれば、事態は最低限の被害で済んだのかもしれない程に、穴があった報道でした。
しかしゲイリーの「プライベートにまで関わってくる報道なんて関わる価値なし」という一貫した態度が災いし、即座に手を打てば済んだであろう問題事を気にも留めなかった事で、この報道は瞬く間に政治家生命を絶たれる程の問題になってしまったんです。

更に、今回のスキャンダルの面白いところは“ゲイリー自身が不倫をしていた事は事実だった”という真実にもあります。
あれほど清廉潔白である事を主張してきたゲイリーですが、結局彼は報道通り、不倫関係にあった女性がいたんです。
しかも、過去にもゲイリーはまた別の女性とも不倫関係にあった事が発覚…。
うーむ…これは頂けないですね…。

結局今回の事件はゲイリーもマスコミ側も盛大にやらかしてしまった、という着地に落ち着くわけですが、ではゲイリーは大統領として相応しくないのかというとそう言い切れるわけではなく、むしろ大統領候補としてのカリスマ性や実力は十分に持っていた人材でした。
勿論、終盤で明かされた女性蔑視ともいえるゲイリーの重なる不倫関係、妻へと許しを請う様はとても援護出来るものではありませんでしたが…。

人々はゲイリーの大統領としてのポテンシャル、この先の国を引っ張っていく素質を支持していたはずなのに、スキャンダルが発覚した途端、これまでの活動はほとんど蚊帳の外となり、彼の人間性の欠如を責め立てていくばかり…。
マスコミの報道によって大衆の意識が誘導されていく事の危険性を身を持って実感したゲイリーの姿は、この先の国の事を思えば残念な結末だったと捉えられます。


それらの真実を踏まえ、ある場面で女性記者の一人がある持論を展開します。

「どんなに素晴らしい人でも、プライベートであれこれやっていたら信用問題になる。私達はそれを取材して、人々に呼びかけなければならない」

マスコミの人間だからこその信念と誇りを持ち、この仕事に就いている意味を爆発させる、本作でも特に見た甲斐があったと思わせられるシーンです。
確かにマスコミの報道する権利、知る権利を行使する余り行う、我が物顔が目立つ在り方や行き過ぎた取材は私個人としても許容出来ないところではあるのですが、“マスコミの存在意義”について今一度考えるきっかけになれる、いいシーンだと思います。
マスコミにもマスコミなりの信念や、正義があるんですよね。
だからといって、当事者が起こした揉め事に関係ない家族・知人にまでその手が伸びてしまう…といった取材の在り方は頂けませんが…。

今回のスキャンダル報道の根本的な意味は、その人が大統領という立場にその人が相応しいか否かを選別する、民衆に向けた一種の問いかけでした。
だからこそそんな重箱の隅をつつくかのような、マスコミの執拗な追跡は避けては通れない。
大統領になる程の器が備わっているのかどうか、マスコミは取材を通して人々へ呼びかけ、人々はマスコミ等を通して品定めをしていると言えます。

ですがこのご時世、マスコミの追求報道はそれ以上に、大衆にとって一つの消費文化、娯楽として定着しているようにも思います。
誰かの起こした不祥事を追及し、その当事者を追い詰めたり謝罪させるその一連の流れに、人々は一種の娯楽的役割を感じているのではないかと考えてしまいます。
なんせ、取材者や当人達とは関係のない安全地帯からあれこれと盛り上がれる、こちらからすれば相手側から咎められる事がない場から、一方的に笑い者に出来るわけですから。
ここまで来ると、マスコミの思い描く理想・信念と、それを受け取る大衆の意識の間にある、溝が広がっていくようで居心地が悪い…。
最早、誰のための報道で、何のためのマスメディアなのか…。