たけまる

ジョーカーのたけまるのネタバレレビュー・内容・結末

ジョーカー(2019年製作の映画)
4.2

このレビューはネタバレを含みます

圧倒的どうしようもなさの世界のレールに車輪を踏み入れてしまったら…、その狂ってるけど唯一の世界を取るのか、狂ってるとされても正気を捨てて自分を取るのか…。その正気を捨てた世界しか正気でいられる世界がなかったとしても。。

極限的な実存の映画だと思った。自分を肯定し選択し世界に対置することができる唯一の世界への在り方が、圧倒的に社会と呼ばれるものとはかけ離れていたとしても、もうそこに着地するしかないという、究極の個人の実存の問題を描いている…。

アーサーがJOKERとなり、これまでの鬱々としたシーンから一変して晴れやかに開かれる階段のシーンは、個として自己の生(存在)を選択し圧倒的に肯定するという近代思想も擁護するような象徴的なシーンでありながら、同時にゴッサムという社会の崩壊をも同時に意味するというジレンマ…。これは現代社会も常に孕んでいる問題である。

社会的には何一つ肯定されるものはないと思いながらも、個の立場で見たらその蓋然性に同感できる部分があり、次第にそれが不満のたまる市民の鬱憤へと広がっていき、負の感情が市民権を得ていく。その過程に立った時、次第に反社会的なオーディエンスの気持ちへと同化していっている自分も感じるし、否定できない。

ここから得るべき学びは、システムは崩壊させてはならないということ。市民のためにあったはずのシステムが市民を脅かすとすると、そのシステムが規定するルールの蓋然性が失われ、生存の動機的には今度はシステムを脅かしていいことになる。それがまさにゴッサムであり、もしかしたら今の一部のアメリカを反映しているのかもしれない。

奇しくも、直前にこのニューヨークの現状のニュースを見ていたので、「本来映画は非常に社会的である」といった宮台先生の言葉を改めて思い出した。
https://news.line.me/issue/oa-forbesjapan/58691d0aff05?utm_source=line&utm_medium=share&utm_campaign=talk
映画を見て、トランプ政権の勝利もこういうことだったのかと思った。

他にも、アーサー(JOKER)が電車内である意味防衛と仕返しも込みで3人射殺するシーンと、後にJOKERを追う警察官が電車内の人混みで拳銃を市民に対して誤発してしまうシーンの対比も、市民を護衛するはずの警察官が市民に受け入れられてないという矛盾の様子がまさに上記のシステムの崩壊を考えさせるのに十分な描写だった。

また、アーサーが社会的に死んでいく=社会との決別を覚悟していくメンタルブレイクポイントがいくつかあると思うけど、人生の拠り所として信奉しているナイトショーの人気司会者マレーに自分を否定されるシーンは、やべえなーと思った。これは深読みかもしれないが、コメディアン志望なのに、お笑いナイトクラブのようなところで他の人と自分は笑いのポイントが圧倒的にズレてるということに気づき始めている時、それでもデニーロ演じるマレー・フランクリンのジョークを見ている時には大衆と同じところで笑えていたのだ。そりゃその自分の中のヒーロー的な存在の彼に否定されたら死ぬわな、メンタル的に。

まだまだ書きたいことはあるけど、とりあえず一つ言えるのは、高校の時に見なくてよかった。ほんとうに。
たけまる

たけまる