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ジョーカーのGKのレビュー・感想・評価

ジョーカー(2019年製作の映画)
4.0
ヴィラン。

英語としての意味は「悪党」や「悪人」といった意味を表す単語で、アメコミ作品に出てくる「悪役」を総称してそう呼ぶことが多い。


昔から、人はヴィラン(彼らの存在を脅かすモノ・コト)に立ち向かおうとしてきた。

古くは宗教だろうと思う。
どうしようもない理不尽なこと、例えば天災、例えばどうしようもない圧政を敷く独裁者。害があるが自分たちではどうしようもなくてモノ・コトを受け入れるために宗教をすがってきた。また対抗するための団結にも宗教は作用しただろう。


近代になり宗教の力が相対的に弱まり、何にすがろうとしてきたかというと「ヒーロー」だ。ピンチの時にタイミングよく現れて、自分たちを救ってくれる存在。それは政治家への期待だったり、アメコミヒーローへの憧れだったり、そんな形で表出される。

ヒーロー時代までのヴィランはどうしようもなく悪党だった。
得体が知れず、彼らは根っからの悪党で、同情する余地などない。
だからそれを倒すヒーローは味方であり、正義であり、正しい存在だった。


そんなヒーローが打ち倒すヴィランの代表格がジョーカーだ。
古くからコミックや映画において、ずる賢く恐ろしく悪党して描かれてきた。苦戦しながらもジョーカーに対抗するバットマンは紛れもないヒーローだった。



しかし、2019年公開された『ジョーカー』のジョーカーは違った。
今作の中のジョーカー、アーサーは決して根っからの悪党なのではなく、「コントロールの仕様のない生い立ちや社会課題(格差など)により、追い込まれてしまった一般人」として描かれている。作中の半分以上は、彼のつらく、悲しく、そして抜け出しようのな境遇をこれでもかというほど見せてくる。彼は根っからの悪人なのではない。「環境がジョーカーを作った」それが本作のジョーカー、ヴィランに対するスタンスだ。

そんなヴィランを、ヒーローが「おい!ヴィラン悪い奴め!私が世界を救う!」と倒していいものなのだろうか。

『ジョーカー』の世界ではヴィランは悪人ではない。
「自分の意思は関係なく、悪人ならざるを得なかった人間」だ。
ヒーローはヴィランを倒せない。

それはつまり、今までのヒーローの存在を否定しているとも言える。
今作は「ヒーローの時代は終わった」と宣言している作品なのだと思う。アメコミ作品でありながら、従来のアメコミ作品を否定している。

また、映画の世界だけではなく現実世界においても「ヒーロー神話」は崩れつつある。

1つの理由は、サイエンスと情報網の発達によるものだろう。
大方の事象は把握/解明されつつあり、かつその情報が広く共有されている。
ヴィランの存在も同様だ。ジョーカーという存在には理由がある。「得体がしれない」に対応するのはヒーローではなく、情報になった。

また政治への期待(=神話、ヒーローの出現)が失望に変わりつつあることもあるだろう。理想論を語る政治家への失望から始まり、一時期はポピュリストが台頭したが彼らも一時の勢いはない。


ではヒーロー亡き、ヴィランが人間宣言した現代において、何に助けを求めればいいのか。

映画『ジョーカー』はその答えを提示してくれるわけではない。
トッド・フィリップス監督はインタビューでこう答えている。

映画において、私はそこにメッセージを定義すべきとは思っていません。映画を観に来た人の中には、ジョーカーの原点だと理解しながらも、そこに必ずしもメッセージがあることを望んではいないと思うのです。メッセージがあるだけで政治的な映画だと捉える人がいるかもしれませんし、人によっては人道主義者的の映画だとみる人もいることでしょう。メッセージが何かはすべて観客のほうに委ね、観客に対して「こんな経験をしてほしい」と、こちらが定義するものではありませんから…。 

「人間であるヴィランに対して、あなたはどう向き合いますか?」
その答えは観客に委ねられている。
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