ケンヤム

運び屋のケンヤムのレビュー・感想・評価

運び屋(2018年製作の映画)
5.0
老いはイカレジジイから血と暴力と運動を奪ったが、イカレジジイから映画を奪うことはできなかった。
そして、これからもできなそうだ。
死ですら、イーストウッドから映画を奪い去ることはできないだろう。

イーストウッドは一直線の物語から、ストイックに離脱し続ける映画作家だ。
そう。文字通りストイックに。
そこには常に暴力と血が同居していた。
それを象徴するのが、トゥルークライムのクライマックス、死のカーブからの離脱であるが、この映画のイーストウッドは、あらかじめ決められたルートを緩やかに離脱し続ける。
そう。文字通り緩やかに。
彼は、麻薬を運んでいることを認識しながら、好きな音楽を聴いて最高のポークサンドを提供するカフェに立ち寄るのだ。
その態度は、和やかな老人のそれであるのだが、ある種の頑なさのようなものに貫かれている。
「好きに生きろよ」を地でいくイカレジジイの頑なさ。

主題的にはトゥルークライムでやったことの焼き増しだ。
失われた時間について、あるいは空間について。外と内。失われた内っ側とその喪失感について。
外=仕事しかこれまでの人生で見てこなかった哀れな男の、失われた内っ側=家族についての物語。
トゥルークライムでは「ついに失われたものは取り戻せなかった」という喪失感のようなものを感じさせる内容だったが、運び屋は、それを取り戻しに内に取りに帰る男のプライドと謝意のようなものを感じさせる内容だった。

失ったものを取りに帰る時、イーストウッドはまたしても規定された一直線のルートから離脱する。
そして、離脱してから葬式を終えてそのルートに戻った時、イーストウッドの映画に欠かせない暴力と血が帰ってくるのだ。

それまでスクリーンにずーっと映されなかった血が、運転するイーストウッドの顔にベットリと付着している。
ならば!とイーストウッドファンはカーチェイスとドンパチを期待するところだろう。
ここで、それを期待しないような映画ファンは映画ファンではないとすら思う。

それなのにイーストウッドは。
イーストウッドはゆったりと走る。
ヘリコプターが上空から迫っていて、警察車両が何台も追いかけてきているのにもかかわらず、彼はゆったりと走る。
警察車両はイーストウッドの進路を遮る。
それでもイーストウッドはゆったりと走る。
クローズアップになるイーストウッドの血濡れた横顔。
その時、私たちは老いが彼から奪ったものを再確認する。
老いは彼からアクションを取り上げたのだ。

そのことの喪失感をこれでもかと感じさせるイーストウッドの過剰な演出。
これこそイーストウッド映画だ!と思った。
アクションが失われても、血や暴力が失われてもこれはイーストウッド映画だ!
ヘリコプターが追っかけて、何台もの警察車両が追っかけているのにも関わらず、関係ないかのようにゆるゆると走るヨボヨボのイカレジジイが運転する黒い車。
この過剰な対比。過剰さこそイーストウッド映画の醍醐味だ。
老いはイーストウッドからアクションを奪った。それでも、映画は奪えなかった。

裁判所を出る時のイーストウッドの老いぼれた足取りのクローズアップ。
失われたものは、失われたまま生きていくしかないのだろうが、私たちは一歩一歩ヨボヨボと歩くことができる。
裁判所から出る主人公の老いぼれた足取りのクローズアップと、エンドロールの刑務所で花の世話をする主人公のロングショットは「これからも好きに生きるぞ」というクリントイーストウッドの決意表明だ。

特にエンドロールの刑務所に入れられてもなお、花の世話をする主人公のロングショット。
「俺は刑務所にぶち込まれたって好きなことするからな」ってことか。
おい!なんか謝ってるようにみせかけて、さては反省してねぇな!イカレジジイめ!
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