白眉ちゃん

クワイエット・プレイス 破られた沈黙の白眉ちゃんのレビュー・感想・評価

4.0
『人間はなんと鈍感で騒々しい生き物だろうか』


 前作『クワイエット・プレイス』('18)は、音に反応し殺戮を行う地球外生命体の襲撃によって、微かな音さえ立てられない極限の緊張感を提供するサスペンス・ホラー映画だった。個人的には「子を持つ親が社会によって負わされる神経質な内面心理」を戯画化した作品と解釈している。トラブルはいつも子供によって引き起こされ、その度に親が神経をすり減らしながら、それでも愛する我が子の為にと対応を求められる。まさに子を育てる親の物語だった訳だが、母の出産や父の死を経て、今作は物語のタームを子供世代へと移して行く。

 まず谷底の生家を離れた3人は、恐らくは父親が敷設したであろう白い砂の道のさらに先を行くこととなる。家父の庇護を離れ、妻や子供たちは未知なる領域を歩むこととなる。雑草が鬱蒼と生い茂る錆び付いた廃線に沿って歩き、対人用のワイヤートラップが行く手を阻むなど、殺伐とした終末世界の形相を呈している。ビジュアルやコンセプトの類似性からも傑作サバイバル・ビデオゲーム『The Last Of Us』('13)などが個人的には思い起こされた。話は一気に飛ぶが、ラストの子供二人が怪物を撃退するシーンで世代交代が描かれているのは誰の目にも明らかである。映像編集の最大の特質でもある物理的距離や時間を超越して二つのシーンが並列されている。前作でも音を出せない状況の中、母親はバスタブで出産する瞬間に悲痛な叫び声をあげ、父親は絶体絶命の子供を救う為に雄叫びをあげる。沈黙を破るふたつのエピソードは子の命を繋ぐ親の愛なる行為として並列されていた。今作のラストでは動けない親世代を背に、武器を構え、脅威を排除する。意志を継ぎ、成長した子供たちの姿がこのシリーズのスパンと切ったように終わる特徴的な幕切りによって印象づけられる。

 実際に耳の聞こえないミリセント・シモンズが演じる聾者の長女リーガン。前作では父親リーと衝突することもしばしばだったが今作では彼の意志を継ぎ、人類を救う使命感を帯びている。耳が聞こえないながらも完全な無音という訳ではなく、彼女が知覚している世界を空気の揺らぎのようなサウンド効果で表現しているのは見事である。エミリー・ブラント演じるイブリンは今作でも機転を利かせて窮地を脱するなど、タフな母親像を残している。結婚指輪を次男の墓標に残していく彼女からは未亡人の悲嘆に暮れてはいられない生存への決起が読み取れる。ならば”女は強い”という単純な物語なのだろうか。男達のシークエンスは何を紡ぐのだろうか。

 キリアン・マーフィー演じる白人男性のエメット。軍歴がある?彼は襲撃により家族を失い、今は廃工場の地下でただ死を待つ存在である。人除けのトラップを擁して、他者を救う価値がないと見限り、イブリン達に対しても「助けてやれない」と拒絶する。恐怖によって完全に心を折られてしまった男だ。同じく長男マーカスも恐怖に屈している。足に重傷を負った彼は、人類を救う為に探索を止めるべきではないとするリーガンの提案を否定する。そんな彼が地下を抜け出す一連は、怪物を呼び寄せる結果を招きながらもエメットが妻の亡骸を抱えていた事実を明らかにする。つまりはエメットが恐怖に膝を折り、愛する家族以外の社会への理解を捨てた男であるということである。そんなエメットのことをリーガンは「父親とはまったく違う」と糾弾している。父親への愛情もあるだろうが、エメットに見る男性像の何を彼女は強く否定しているのだろうか?そんな二人が船を求めて港町へと到達する。そこでは生き残った無数の男達が幼い少女を囮に待ち構えている。彼らの目的は明確には語られないが静寂を必要とする場にぞろぞろと雁首揃えて現れる異様な光景である。少女という弱者を平然と切り捨てて自らの利だけを追求するその姿は、恐怖に屈していたエメット同様に他者への理解や寛容さをなくした人間の姿ではないだろうか。しかし、リーガンとエメットは補聴器や手話という聴覚障害の社会的弱者の武器によって怪物や排他的なマジョリティの脅威を乗り越えていく。窮地を脱する”ダイブ”の手話は、他でもないエメットが他者への理解を捨てる前、Day 1の学びである。このように、この映画は社会的弱者への不理解とそれに対しての反抗を描いているのだ。


 このシリーズの象徴的なイメージは、裸足で歩く姿である。血の滲む、生傷の絶えない裸足を執拗にとらえる。そこには作り手側の確かな哲学とメッセージがあるだろう。はっきりと汲み取ることは難しいが、裸足で地面を踏み締めると思いの外、大きな音がする。その度に鋭敏な聴覚を持つ怪物に気づかれるのではと肝を冷やす。人間はなんと鈍感で騒々しい生き物だろうか。ならば立ち止まり、声を挙げずに自分のことだけを考えて居る方が賢明だろうか?それこそ社会をサバイブするスマートな立ち回りだろうか?だがリーガンは耳が聞こえないにも関わらず、前作でも今作でも無謀にも一人で歩き出す。ハンデを物ともせず、この世界や社会に目を向け、知覚し続けることを憚らない。それはまさに、Stay Walk(歩き続けること)とStay Woke(意識し続けること)のダブル・ミーニングを彼女とその家族の肉体言語が表現しているからだと言えるだろう。

 前作は「音を出したら死ぬ」というコンセプトに家族愛のドラマを持ち込み、90分の短い尺の中でソリッドな映画に仕上がっていた。それ故にわかりやすい映画でもあった。今作は生家を離れて社会に飛び出すことで、「歩くこと」「音を立てないこと」そして「この世界で生きること(生き残ること)」により高次な意味を付与しているが、同時にやや難解になった印象もある。
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