うべどうろ

きみと、波にのれたらのうべどうろのレビュー・感想・評価

きみと、波にのれたら(2019年製作の映画)
-
この作品に点数をつけることが、僕にはできない。映画作品としての評価と、ここに描かれた東日本大震災を生き残った方々への応援歌としての評価が、あまりにアンビバレンスな感情として胸に迫り来てしまうから。

『夜明けを告げるルーのうた』に続き、この作品も、海というレヴィヤタンを前にあまりに無力な人間という視点から、そこに消えていく者達の「死」をアニメーションの魔法によって昇華し幻想化するある種のレクイエムである。その背後には、間違いなく東日本大震災への弔意が通底しているのだと思われる。『夜明け告げるルーのうた』は、亡くなった者たちを神話化することで、そして本作は“生き残った者たち”を現実的に描ききることで、その両面から、あの大惨事を包み込もうとしているのではないか。そして、その想いは本作でより色濃く表出されるとともに、ここには明確な“生き残った者”へのメッセージが込められているように感じる。

この作品は全体的なクオリティはとても低い。突如として挿入されるMV的な演出は、付け焼き刃のメモリアル偽装工作のような表面的な印象を拭えない。もちろんそこには、そこで奏でられる音楽そのものの軽薄さもあると思うし、同時に“想い出”という形而上的なテーマに縛られ、その上で尚「音楽」への信仰を個性として捨てきれない湯浅監督のカルマをも感じてしまう。だから、映画作品としては全く魅力を感じない。結末に至るまでの最後のシーケンスも、物語的な必然性はなく、ただ舞台が唐突に晒されているように思う。

しかし。ただ一つ、そのシーン、その台詞の中に、この映画が持つ「祈り」が隠されていることは否定できない。それは、兄を失った妹が、先輩を失った男(=消防士として、物理的に先輩を救えなかったことを悔いる)にかける言葉。「私は、山葵の言葉に救われたんだよ」という革命的な回向。そうだ、この言葉こそ、救いの祈りなのだと。“生き残った”あるいは“生き残ってしまった”私たちへの応援歌なのだと思う。僕は涙が止まらなかった。あの日、あの時、“生き残った者”の全てが、物理的には死者を救えずに、己の非力を嘆いたに違いない。しかし、いつまでもその非力を悔やみ続けることを死者が望むだろうか。“生き残った者”を救うことができるのは、まさしく“生き残った者”だけなのであって、きっとそこには言葉という非力な私たちに残された強烈な祈りのパワーが必要なのではないか。あるいは、それこそが、そしてそれのみが、「生きていく力」なのではないか。

東日本大震災で、近しいものを、あるいは何かの要因で自らを“生き残った者”として認識する人に共通しうる感情は何か。それは、「何もできなかった」という無力感か。「助けられなかった」という後悔か。その感覚を抱く“生き残った者”を支えたいと願う“生き残った者”が感じるであろう感情は何か。「そんなことないよ」と言いたいけれど言えない距離感か、「生きてていいんだよ」と言えない疎外感か。そうした宙に浮かばざるを得ない、その居場所のなさをもって真となる感情を、その感情への返答を、湯浅政明はこの作品で描こうとしたのではないか。その一抹の期待から、そのすがるような祈りの言葉から、僕はこの作品を評論する自信を失ってしまった。
うべどうろ

うべどうろ