はなればなれのマチルダ

No Such Thing(原題)のはなればなれのマチルダのレビュー・感想・評価

No Such Thing(原題)(2001年製作の映画)
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ある研究者はハートリーの映画を「90年代に一斉を風靡したオシャレな映画」と言い、ある批評家はハートリー映画を「90年代に一斉を風靡したダサい映画」と言っていました。

私がこの会話に立ち会ったのは、おおよそ2週間前のことです。
それからというもの、「ハートリーの映画とは何なのか」ということが、頭の隅とも中央ともいえないような場所で常に存在感を示していました。



個人的な映画経験にはなりますが、この『No Such Thing』にて、私は初めて英語でハートリー作品を鑑賞しました。つまり、初めて彼の映画をダイレクトに見つめたのです。
ちなみに本作の制作総指揮は、フランシス・フォード・コッポラが務めており、ハートリー監督作の中で最大規模の作品となっています。

初めてハートリー作品を見たのは確か、中学生の頃だったと思います。
14歳かそこらで鑑賞し、最近になって見返した作品もそうで無い作品もあります。いずれにせよ、日本語のサブタイトル付きで鑑賞しているので、私の脳内には台詞が日本語に翻訳されて記憶されています。

そのため、比較するのは分不相応にも思います。しかし、研ぎたてのソムリエナイフのような、シャープで洗練されているという認識のハートリーが紡ぐ言葉。それは時に詩的であり、これらに私は長らく魅了されてきました。

ですから、正確なことは言えませんが個人的な感覚として、本作『No Such Thing』は、言葉のキレが悪いように感じました。
そして、ここからが本題ですが、映像のキレも悪い。



ハートリーの映画と言えば、
ノスタルジックなフィルム映像や、センスの良い音楽にお洒落な衣装。文学を学んでいたバックグラウンドから醸し出される詩的な台詞。魅力的な役者と、彼らが踊るエモーショナルなダンス。

字面にすると確かにお洒落ですよね。
私も幼い頃は、もしかするとお洒落な映画と思って彼の作品を見ていたのかもしれない、という気もしてきます。
しかしながら、今の私にはどうも腑に落ちません。

ハートリー映画の登場人物とは、お洒落な映画のエッセンスと同じだけ、痛々しく滑稽です。無論、多くの人はそれを考慮して、さらにそのコントラストが殊更彼の作品をお洒落にしていると見做しているのでしょう。

映画を見始めて早7年。
少しは映画を観ていると言えるほどには、数も知識も積もりました。
ですから、ハートリーの映画を観ると、それというのが完璧では無いことが私にも何となく分かります。時に、作ろうとして作られているのが目に映ることもあります。


キアロスタミやキェシェロフスキのような、稀有の完全なる映画性は無いのかもしれません。
しかし私にとって、青春を共に過ごし、今尚隣にいて欲しいと思う数少ない映画監督とその作品とは、ハル・ハートリーに他なりません。
彼の映画のぎこちなさを、きっと何年もの間愛してきました。


そう、ハートリー映画とは「90年代に一斉を風靡したダサい映画」なのだと思います。
だからと言って、彼の映画を好きでなくなることはやはりあり得ませんし、もしそうなる未来があるのだとしたら、それは今の私にとってアンビリーバブル・トゥルースです。



I was making love.
He is everything, and nothing.