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名探偵コナン 紺青の拳のICHIのレビュー・感想・評価

名探偵コナン 紺青の拳(2019年製作の映画)
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旧来からのコナンファンとして、毎年かけ離れてゆくコナンを呆れながらも楽しく観賞してきた。

さすがに今回は予想を上回る酷さで、笑っていられなかった。

紺青の拳が聞いて呆れる。拳にちっとも焦点が当たっていない。拳を持つキャラクターにもちっとも拘っていない。

〈音楽/映像/脚本/演出/キャラクターの魅力〉この映像作品に於ける五本の柱全てが尽く壊滅的だった。 

派手なCGや迫力のあるシーンを上面だけあしらっても、全体のストーリーやキャラクター達の感情がスカスカ過ぎて、全てが茶番にしかみえない。

ここから先はネタバレを含みます。↓
まだ観てない方は、先に劇場へおすすめします。m(._.)m




ネタバレを含む詳しい内容の感想
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まず、
①劇場仕様とは思えない画の雑さ。

アニメである以上画で魅せる努力をしてほしい。コナンの良さは独特の画のなまめかしさ、綺麗さ、大人っぽさだと思っていた。初期のコナンのキャラクターの描写力、暗い色調の美しさ、推理ものならではの、キャラクター間に揺れ動く感情の細かい表現は、素晴らしかった。

勿論、キットやコナンのアクションなど、派手な動きを伴う時も、CGの棒の様な動きではなく、しなやかで綿密な描写力で見事に表現してみせ、キャラクターの個性や感情が頭の先から爪先まで滲み出るような画の動きが圧巻だった。

敵キャラにしても、魅力的なキャラクターが多かった。よくあるB級映画風の、敵で当たり前のような嫌な奴だったり、クライマックスで露骨にゾンビ化したりするというよりは、容姿にも精神にもセクシーさがあり、どこか敵キャラに感情移入してしまいそうな危うさと儚さがあるのが、コナンの魅力だった。そんな敵キャラを相手に、それでも悪の心を見逃さず、屈せず暴いてゆく、コナン改め工藤新一の賢さと強さと、とどめに残してゆく犯人への諭しのことばが、アニメという子供向けのイメージが強かったジャンルに、独特の異彩を放っていたものだ。


当時のコナンほど、成人した視聴者を魅せたアニメシリーズは、シティハンター
移行余りなかったのではないだろうか。

それくらい、画から滲み出る繊細なキャラクターの感情や個性が、魅力的だったのである。


それが今や影も形もない。色味も線画も動きも背景も、何の拘りも持たない適当さで、ひげは囲って斜線、とってつけたような4コママンガのような簡略化された髪や毛の書き方、受けている風の動きに反して動くキットのメガネ紐、おっちゃんの足首の適当さ、すね毛までご丁寧に雑に描かれたギャグのような画づら。
あれだけ街が大量に爆発してもけして逃げ惑う人々を描写しない徹底したご都合主義と上っ面精神、おっちゃんのポロシャツのありえない変な襟、何より今回の主人公、京極真の余りにも拘りが感じられないビジュアル、毎回なんで腕のシルエット変わるねん、格闘家とは思えない登場シーンの二の腕の「普通の人」さ。そこからクライマックス辺りに出てくる二の腕の筋肉質な(それでも、画として肉体の美しさを魅せる気持ちなど微塵も感じられない適当な筋肉の描き方)シルエット。

クライマックスである筈の、今回のテーマである筈の、紺青の拳にかけられたミサンガが切れた瞬間の京極真の表情の変化は一切描かれず、いきなりあっけなく殴りはじめている、そのシーン自体の扱いの雑さ、寧ろ存在意義。

リシがいきなり目が「チョン」になるのには、観客をおちょくっているのかと、ドン引きしてしまった。青山剛昌はこれにOKを出したのか?だとしたらもはやコナンから一切の魅力が失われたと言ってもしょうがないと思います。

今までどんな犯人にも、何かしら犯行を犯すだけの理由が生まれた過去と、犯人なりの美徳と、そういうものを内包した犯人の艶かしさがあった。

今回のリシも、登場シーンから途中まで、そういう要素を全身特に笑ったままの目に醸し出しながら、彼だけはいい感じに謎めいてストーリーを展開してきた訳である。

その結果が「目がテン」。これは酷すぎると思ったし、この乱暴で粗雑なキャラクターへの扱いが作者である青山剛昌お墨付きの表現だったのならば、もはやかつての、コナンがコナン作品たる魅力は失われてしまった、とわたしは認識せざるを得ない。

どうか青山剛昌に無断であのようにしたと、そういう事実であることを切に願う。


②音楽の酷さ
キャラクターの感情、シーンの質感を全く無視してがちゃがちゃと鳴るだけの音楽。こんな、今後このストーリーを左右するであろう重要なキャラクター同士の会話を邪魔するような音楽など、ない方がずっとましだ。オープニングタイトル直前のシーンに鳴る音楽からのオープニングタイトル挿入への音のつながりなども、一番盛り上げてつなげていくべきところを全く拘らずにつなげられていないのは、演出にも問題がある。

③何の魅力もない脚本

普通劇場ものともなると、かっこいいセリフや心に刺さる言葉の一つや二つどころか、そういうものをかき集めて散りばめるのが、脚本の仕事とも言える。

今回そういうものは一切なかった。全て上面に流れてゆく適当に時間稼ぎな会話ばかり。何が伝えたかったのか、そのメッセージ性が何一つ感じられない。わたしが鈍感なだけなのか?

④演出はこの作品、ほんとに好きでやったの?

これがもし、全て拘り抜いてこういう方針で100パーセント表現しきりました!というのならば、演出にセンスがなさすぎるかわたしの感性がくそすぎるか、どちらかである。

もしそうではなく、予算や時間や人の確保がままならなくて、全てがやっつけでしたというのならば、こちらは2年待っても3年待っても10年待っても全然構わないので、ぜひ納得のいく形で、劇場に出してほしい。やっつけでやった作品に対して、どんな感想批評をしたって、それほど無意味で虚しいものはないからである。

これが、予算も人も時間も予定通りで、何の拘りもなくただ仕事として当たり前のようにノルマをこなしていてこうなったのなら、そんな人がコナンに関わらないで頂きたい。コナンファン、青山剛昌、かつてのコナンシリーズに対して非常に失礼で、冒涜である。

⑤キャラクターの魅力(アニメーター側、脚本側双方)

アニメーター側
せめて、キャラクターに愛情を持って、本当にキャラクターになった気持ちで、描写してほしい。脚本は脚本家や監督が決めるにせよ、ビジュアルや動きはある程度は描く側が拘れる筈でしょう。マンガのネームのような髭や、もはや人体の描き方から練習してと言いたくなるような、無意味な足首の「変さ」、両目のサイズが明らかにばらばら、意味なくすね毛を適当に描き散らかす(おっちゃんはかつての作品観てもむしろ美脚に書かれてあり、すね毛なんてなかったよ)、誰が決めたのか知らないがリシの「目がテン」など。ほんとに、やめて頂きたい。

脚本側
キャラクターに愛情を持っているなら、主人公の京極真をはじめ、敵役のレオン・ローや鈴木園子、キットとコナンの関係やコナンと蘭の関係、灰原の感情など、もうちょっとかつてのコナンを観て、緻密に構成してほしい。

感情と感情が否応なしにぶつかる瞬間が、ストーリーが動く時で、それによって作品が作品として姿を表してゆくのである。キャラクター間の緻密な感情表現なくして、映像作品は存在し得ない。そこを理解して、上面だけの、アクションシーンまでのつなぎとして、ただの駒としてキャラクターを雑に扱い、アクションシーンが終わればコナンのハラハラ帰国シーンも描かずに見事に最初のスーツケースの件も回収しないで終わるような、本当にアクションシーンの練習台のようなカテゴリーとしてコナン作品、コナンキャラクター一同を扱うのはやめにしていただきたい。(と言っても、そのアクションシーンですら、今回は尽く適当に感じられ、かっこよくもなんとも感じられなかった。第一、大量の人が死んでるかもしれない大爆発のさなかで、人々にお構い無く自分達の格闘意欲を優先させ、園子迄背負いながら子供の喧嘩のようにライアンと戦うシーンなど、何の必然性もなく、お前ら何やってるの?と笑ってしまった。締めの、ミサンガが外れた京極真の一撃など、「お前はドラゴンボールか!(正確には、孫悟空か!と言うべきでした)」と叫んでしまった。)
  



書き出すときりがないので、この辺でおさめますが、
以上が大体の今回観た感想でした。
ドビュッシーの月の光も、何の脈絡もなく唐突に出てきた。一体何に拘って作られたのか、全くわからない、コナン作品とはけして言えない、何か若手アニメーターや脚本家、演出家の練習台で用意しました、的な「映画(これが映画だとは言いたくない)」だった。





毒舌生意気極まりなく、すみませんがこれが率直な感想です。
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