YukiSano

天気の子のYukiSanoのレビュー・感想・評価

天気の子(2019年製作の映画)
4.4
セカイから世界へ向かうー 
個人の中で都合よく閉じたセカイから訣別して、社会と向き合うこと。

これは日本という国が向き合わなければならないテーマであり、世界的ヒットを叩き出した新海誠が向き合わなければならなかった命題。

劇中で、セカイから飛び出して都会で迷う少年が武器を手にして、少女と出逢い人々のために天気を操る、という物語は一体何を「象徴」しているのか、鑑賞中ずっと考えていた。

リアル過ぎる東京は新海誠が社会と向き合う宣言なのか、不安定な天候は世界情勢なのか、立ちはだかる反社会的人間と公権力は現代社会への反発なのか。あの銃は少年の大人社会への破壊と憎しみか。人のために祈る少女が消えていくのは超ヒットメーカーになった新海誠の作家性消失の恐怖なのか。

世界と向き合うこと、社会で責任ある立場と行動を取る大人になること。天気のように移り変わる社会の中で正しさと居場所を求めて貧困にさらされた少年少女が、他の誰のためではなく自分達のために祈ることを決意していく物語。

天気を晴れさせると少女はネットで称賛され、少年が線路の上で走る時には社会の歪みの象徴達が彼を馬鹿にする。誰かの都合に合わせて生きることが社会で上手くやれることなのか?

新海誠の作品は必ず電車のレールの上で主人公が揺られているシーンが登場する。いつも運命に身を任せている象徴だ。辿り着く場所は何処か分かっている。だけど今回は、自転車とバイクに乗った主観が見えた後に、レールの上を自分の足で走る。電車という運命には乗らない。そう決意したのだと分かる。

彼は走って武器を持って、自分自身でいると宣言する。それが社会にとって有益でなくても構わないと叫ぶ。自分も他人も何かを色々と失うだろう。それでも社会は動いていくし、気にされなかったり、忘れられたりもするだろう。自分が社会に与える影響について考えるのは責任なのか、驕りなのか、分からない。

分からないから、側にいる愛する人を選ぶ。
自分の信じたことをやり抜く。

そう新海誠は宣言する。
それがセカイなのか世界なのかも分からない。

だけど地球から見たら晴れてる所もあれば、嵐もある。

僕らは、そこで生きている。
どんな天気でも生きていく。
YukiSano

YukiSano