Kachi

ミュウツーの逆襲 EVOLUTIONのKachiのレビュー・感想・評価

ミュウツーの逆襲 EVOLUTION(2019年製作の映画)
4.0
【ミュウツーは憧れであり、絶望。それが本作でもしっかり表現されていた。ただ、強いて言えばアイツー(Ai-two)の下りが欲しかった】

子どもにとってはある意味恐怖体験。大人にとっては、自己存在を正面から問われることになる、ポケモン映画の初回作にして問題作。リメイク版である本作を観たらどんな感想を持つか、興味本位で公開初日に劇場へ(トイ・ストーリーはもちろん無視)

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(以下、しばらく期待を下回ってしまった部分の説明)

結論としては、元の作品としてのレベルが高いため安心してみられたが、「完全版」のリメイクであって欲しかったというのが感想だ。


ミュウツーの逆襲は、劇場公開された後、完全版としてフジ博士(ミュウツーを生み出した研究者)とその娘(アイ)のエピソードが追加されている。(詳細はネット検索してもらえればわかるだろう)

フジ博士は、アイを交通事故で無くすも研究の成果で、アイのコピーであるアイツーを生み出す(あくまで実体はなく、意識を電気的に再現したホログラムであるが…)そのアイツーと幼いミュウツーとの出会いや掛け合いが、完全版には収められている。

このエピソードで、まだ試験管から目覚めていないミュウツーは「生きること」の尊さをアイツーから朧気ながら学ぶ。人間には身体があり、他者を慈しむ心を持っていることも伝え知ることになる。

この一幕があって初めて、ミュウツーの自己存在への自問自答が意味をもってくる。

・人間によって生み出されたポケモン
・最強のポケモン(オリジナルのミュウより強い)

それがミュウツー自身を構成するアイデンティティの核となる部分である。ミュウツーは、そこから「優れた存在(≒強い生き物=コピー)」こそが生きるべきであるという思想にたどり着く。

だが、ミュウツーの逆襲でのサトシ達との出逢いを通して、その考えを改める。オリジナルもコピーも、どちらもすでに生まれている。それは疑いようのない事実であり、そこに価値判断はない。どちらも生きてよいのかもしれない。そのようにミュウツーは考え直すのである。

今回のリメイク版では、完全版のアイツーエピソードがなかったため、ミュウツーの思考の流れにやや飛躍があるようにも思われてしまった。だからこそ、アイツーの下りは、たとえ元の作品にはなかったとしても、入れるべきだったと思う。

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以下、テーマごとに感想。

・ミュウツーは憧れであり、絶望である

小学生の頃、この映画を観た感想は、ミュウツーの圧倒的強さへの憧れだ。小細工など一切いらず、すべてをサイコキネシスだけで片付けられる。どんな強そうなポケモンの、どんな技も一切通用しない。唯一、オリジナルのミュウだけが互角に渡り合える。

そんなミュウツーの描写に、幼心に憧れを抱いたことは間違いない。小学生の頃は、自己存在について考えることなど(特に低学年のうちは)ないため、純粋に強さへの憧れがミュウツーに対するまなざしとなる。

翻って、ある程度大人になった私に突きつけるのは絶望である。どうあがいても、張り合えない存在の象徴であり、また、人間の存在自体を真正面から否定してかかるミュウツーの毅然とした言動は、自己存在を不確かなものへとしてしまう。

先にも触れたが、ミュウツーのミュウツーたる故は、比類なき強さであり、自己存在を肯定するためには、自分より弱い者を否定する方向へと向かう。

おそらく、本映画が公開された当初は、クローン羊ドリーの誕生を念頭に、人間が神のごとく生き物を生み出すことへの是非、すなわち生命倫理の問題への一つの問いかけとしてミュウツーの逆襲は際立った存在であった。

これを20年以上の時を経た時代状況・文脈の中で再考すると、もうそう遠くない将来にシンギュラリティが訪れるとされる中、改めて人間には何が出来るのだろうかという問いをミュウツーによって突きつけられるのだ。

ミュウツーが言い放つ深遠な問いに対して、私たちは言葉を失う。ミュウツーは20年以上の時を経た今なお、絶望の象徴ともいえるのではないだろうか。


・リメイク版での変更点や前作を踏襲した点

まず驚かされるのが、声優陣がいまだ健在ということだ。とりわけ、オハスタに出ていたレイモンドまでしっかりと声を入れ直しており、往年のファンとしてはまさにカーテンコールだ。

エンドロールで流れる「風といっしょに」も含め、すでに大人になってしまった私たちが原点に立ち返れるように、とことん焼き直しをしてくれている。

一方で、微細な点がアップデートされている。例えば、ロケット団とサトシ達が海を渡るシーンは、だいぶしっかりしたラプラス型の乗り物に更新されているし、御三家(フシギバナ、カメックス、リザードン)のオリジナルvsコピー対決では、技がアップデートされている(エナジーボールやリーフストームは、初期版にはない)。

細かいところでファンを捕まえて離さない。


・象徴的な描写が多く、解釈の余地が与えられている

本作の優れたところは、鑑賞者に多様な解釈の余地を与えているところだと思う。例えば、嵐の海を渡るポケモントレーナー達には、未知のものに対する好奇心の大切さや、大胆な行動力の必要さを投げかけているような気がする。

また、ミュウの天真爛漫な振る舞いとミュウツーに対する憤りのギャップには、自己存在を脅かす者の存在に対する、生き物の潜在的な防衛反応を垣間見ることができるようにも思う。

あのサトシ石化→蘇生のシーンは、どのように捉えたらしっくりくるだろうか…。私は、オリジナルとコピーの和解というよりは、自己存在の肯定と捉えると納得がいくような気がしている。
 
オリジナルとコピーの戦いは、技を使わずフィジカル戦となっている。このことが意味するのは、生き物が自己肯定に至る過程には、自分自身との生々しい戦いが避けて通れない。小手先の小技は要らず、正面を切って向き合わねばならない。当然痛みを伴う。だから苦しい。しかも、終わりはおそらくない。自分を深く知るのに必要な過程であるけれども、他方でやり過ぎると自己嫌悪にさえ陥る。

その後者に傾きつつあった、オリジナルとコピーの戦いへの解が、戦いの中断(石化)であり、理性を通してポケモンたちが我に立ち返り、涙を流すことでサトシは蘇生した。今回観た時には、そんな感想を持った。

この映画は、どこまでも「自己存在」の探求をテーマとした映画であり、ミュウツーの「コピーもオリジナルもこの世に存在している。生きている。生きていても良いのかもしれない。」という結論は、自己存在を認めることを通して、他者の存在を受け入れることを象徴的に示すセリフでさえあった。

アイツーの件がなかったことは残念だったが、やはり良い映画であることには間違いない。

※ミュウツーが最初にサトシ達トレーナーの前に現れるシーンで出てくる螺旋階段は、DNA構造を模したものだろう。芸が細かいと改めて感心した。
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