harunoma

宮本から君へのharunomaのレビュー・感想・評価

宮本から君へ(2019年製作の映画)
2.5

Welcome to the human race
History of Violence / 顔 / アメリカン


神代ではない。
以下、たぶんディスってます。
この作品やジョーカーに熱狂された方は読まない方がいいかと。長すぎて読む気もしないでしょうが... 駄文です。ちなみにわたしは8mm以外は真利子哲也の映画をすべて観てはいます。今回は乗れませんでした。現状雑感。

よかった。おもしろかった。
おもしろいことは確かで(『ディストラクション・ベイビーズ』はその年結構好きだった記憶がある)いい。
これしかし『わらの犬』『ザ・シャウト』『トカレフ』と『 a perfect pain 』と比べてもいいのかしら。
そうではなく、あくまで現代(死語です)の邦画で、これです、と。新しい映画なのでしょう。いわゆるぶっ飛んでるというやつですか。だいたい新しいのは反古典(溝口も『残菊物語』などすでに反古典といえる)にならざるをえない。そして、ほぼすべて浮ついた暇つぶし以上のものではなく、ちょうどよい気休め。個人的に、池松と蒼井優とはあまりいい出会い方をしていないため、作品と監督でしかいいと思えたためしはない(池松の顔は、いつまでも日本のシニシズムを代表する顔にしかみえず(アメリカンじゃないよな、ダウナーのゴミでホリプロ、死んでかまいません。ホリプロ藤原竜也は大好きです)、『ラストサムライ』(タイトルにここでは他意はない)で映画初出演をした人間とは思えない場所にきた、もうベテランじゃないか。蒼井優に関しては、調べると『リリイ・シュシュのすべて』だと。もはや敬意を表して埋葬=追悼すべき岩井俊二という自分の想像力に負けたゾンビ(あなた高橋源一郎と西島秀俊と同じ横国ですね)出身ということで、この人たちの、夜空も、最高密度も、青色にも、ほとんど興味はないというのが正直なところ。磔刑に処す気概くらいはまだある。
ということで、真利子という名前以外は、まったくマイナススタートで鑑賞した(撮影・佐々木靖之はまだ許せる、四宮はやめてくれ)が、「クソをクソのまま提示する可能性」は、アメリカ映画であってもタランティーノはじめここ数年のトレンドでもあるし、こんなものかな、これもまた飽和した後の商品にはなりえるのか。その点では資本主義がまだ機能していることを証明しもし、つつましく呑気で牧歌的な雰囲気が醸し出されていた。レスラー(ラガーマンでしたね)、肉弾戦、ホモソーシャルな男女、かわいげのあるジェントルマンはなしに進む(They Live ではなく、他カート・ラッセルももちろんここにはいない、痛快な活劇ではなくあくまで日本にあまりに似すぎている日本映画)、景気のよい岩井埋葬映画として「クソをクソのまま提示する可能性」(あくまでもショットのレベルの話)の一ジャンルとして、観ることができた、というかその確認をするために観れた、クソでもコミュニケーションは成立するということは、なんなのだろうか。(全然評価してないか笑)

『A History of Violence』以降の世代
黒沢が彼を評して「いまは、ああいう Violenceに向かう戦略しかない。大変である」とぼそっとつぶやいていたことが思い出される(それって、ああいうってのは、History of Violenceではない括弧付きの Violenceってことですねつまり)
マリコ三十騎は、法政の学生会館から飛び出して、いまここにいると。彼が、生きているようで、なによりだ。次はゴダールをやってもらいたい。カーペンターでもいいぞ。カート・ラッセル(Escape From L.A.)

草々不一

あいかわらず観る前に書いてしまったが感想は変わらずです。

追記

映画は、この程度でいい。上記、予想以上のことはなかった。(いい加減、ダメだという確認のためにだけ観に行くのはそろそろやめます。映画をなめているようでもあるので、双方にとってあまりよくない)
終始、猿のようにガムシャラで熱いと思われる若者のような人々が、なにやらあたらしい映画を成立させるべく、とても頑張っていた。制作の大変さ痛み入ります。今までもよくわからない女優だった蒼井優も体を張って熱演していて微笑ましかった。そのあらゆる状況が、いたたまれなく、大変そうで、衝撃と呼ぶにふさわしい文化レベルの映画でした。日本アカデミー賞、ヨコハマ映画祭賞は、これで決まりなんじゃないでしょうか。今年はすごいですね、ジョーカーに続き単なる映画ファンを唸らせる佳品が揃っている。羨ましいかぎりです。
ロマンポルノでもないんだからと作り手の監督も言うだろうが、こんなに官能なく貧相で楽しくもないSEXも珍しく、前半じゃれあったり、夜の街中でのキスシーンも普通で、なんだかよくわからなかった。蒼井優ってこんなに、いなたい体だったのか。なんであそこまで脱いでおっぱい見せないのかは意味不明。別に大した体でもないので見てもしょうがないが、いなたいのは別に池松も同じで19年にもなってアパートの蛍光灯下でこんな貧相な濡れ場を見るとは、いたたまれない。デジタルシネマってなんでしょうか。これなら牧草で牝牛が歩く姿を見るほうがマシだろう。河を渡る牛の映像を見たほうがおもしろいはずだ。蒼井は人セクに出てるのだから、笑えない。井口奈己は貴重だったな。こんな感じで、ぎゃーぎゃー騒ぎながら、手持ちで適当に撮っていれば「カサヴェテスを想起する」とかいう馬鹿もTLにでてくるわけだから、世の中も捨てたもんじゃないです。「増村保造にすら似ておらず」(蓮實)とでも付け足しておこうか。あえてこう言うが(この映画だから言えることだろう)レイプシーンがつまらなかった。情動も欲望も拒否も抵抗も情緒もない、ましてや運動?もやっぱりない。誰もいない。何も起こらない。(蒼井の怒りはわかるにしても、あれだけあらゆることを瞬時に整理し関係性を客観し、クソなる世界を認識し、科白を吐くというのはもうそもそも、フィクションでしかなく(ここは西部でも南部でもない)そうでなくてもこれは「喧嘩」ではなく復讐、殺しに行かなければならない、絶対に。私がどちらかの当事者ならそれは絶対に殺しにいくだろう。ゆえに登場人物たちが「喧嘩」と言っているのはあくまでもその物語世界を成立させるエクスキューズでしかなく、どんなに狂っていても凶暴でも、どんなに叫んで顔がシワクチャになるほどめちゃくちゃでも物語世界は温存される。ということであろうから、ポリコレ?以下の問題として、レイプシーンがつまらなかった、とこの場合は言ってしまってもいいだろう。いいのか。わからんが。「喧嘩」とかラガーマンとか、どうでもよくて(たくま役の人は頑張っていたと思う、彼主軸でよかったんじゃないか、そうすると地味に古い映画になりそうだけど)、端的にたくまを包丁で刺し殺せば終わりだ、とも思った。なぜ殺しに行かない。一つ蒼井の行動で正しいのは、包丁を持って夜道へ出たこと、であって、しかしそれでも、後半「母親になる」などとほざいていたが、お前は、闇夜に、包丁を二つ両手に持って仁王立ちし、子を守ろうとする殺気溢れる倍賞美津子の姿を見たのか(『ニワトリはハダシだ』)とも突っ込みたくなるし、池松は池松で、ていのよいガキのような大人たち(佐藤二朗)に肩を叩かれんじゃねぇぞ、とも突っ込みたくなり、終始イライラした、その脆弱な空洞のいたたまれなさに。それにしても、真利子さんが、実家での親とのやりとりや飲み屋での会話などちょっとした日常があったりして、なんか物語的なものを描こうとしていて、ちょっと引いた(『イエローキッド』からその癖はあったが、まぁ商業で撮るんだという意気からそれはいいだろうとは思うが、あなたの根本の志向はそこではないのは自他共に自明だったはずだが、ある人には見透かされてるぜ)。『イエローキッド』も刺のような電線を握りしめるファーストシーンから、後半ワンカット長回しの商店街、鉄板を殴りまくるまで、そこそこ身体の痛みのようなものが表現されていたし、『NINIFUNI』はなにもない風景(Road to nowhere)とともに宮崎の確たる存在があったし(ラストショットは『ユリイカ』の宮崎たる彼と、死者の問題としては小津に喧嘩を売ってたがな。死者なめの遠景アイドルのPV撮影(カメラの位置とマイクの位置も車の中)という侮辱的で卑劣な挑発ではあったが、この際もう許そう)、『ディストラクション・ベイビーズ』も存在論的なショットはなかったが、即席存在俳優たる柳楽を、娯楽映画として二重にも三重にもシネマそのものを再利用しているようで痛快ではあった(近年のカメラマン佐々木靖之の正しいあり方の一つはこの作品だったはずだ)。そして今作、原作も知らないし、別に制作の経緯など興味はない。今までの、一応なにかあったようなものたちが、ここでは、本当になにもない。園子温は血糊のコントだったが、これもまたひたすらに虚しい肉体の戯れと傷メイク血糊のコントが続き、それを追う手持ちのカメラもコントと化す。古典派でもなく、手持ちが悪いとはいいません。ただ見え透いている。どうせ、撮影中やコンテを切る時に「ここは手持ちだよね」と監督が思い、スタッフもそうですよね、手持ちですよねやっぱり」という気持ち悪い、さもありなんの共有が自然になされ、結局デクパージュも編集で「どのカット選ぼうかぁ、どれでもいいんだけどね」というなし崩しの意気地なしの選択に違いなく、ジャンルとその越境(古い)の間で、闘う覚悟があってこそ、手持ちという選択はある(例えばフレームレートの選択も含めた『コラテラル』のめちゃくちゃおもしろい人物なめの移動など)、いやあった。ルーニーでもロザムンド(別に好きじゃないけど)でも若尾文子でもジーナ・ローランズでもない。暇であった。これでいける人の感性や感受性や身体感度は羨ましい。いやむしろ何もないからこそ楽しめる、新しい映画なのだろう。これってでも、80年代に石井聰互がすごいとか言って熱狂していた馬鹿な今は老人と、そんなに違わないのではとは思うが。
ここに来ても、神代ではない。ということが、真利子だけではなく、今の日本映画と呼ばれる映画への最適な批判になるようにすら思う。べらぼーにおもしろい人間がそこにいるだけであるが、いや姫田真佐久の手持ちも、俳優をあいしてあそんでる撮影であった。ぎゃーぎゃー騒いでいるちゃちな若手のキャラを、適当な臨場感(そんなものがまだ効果として未だにあるのかと思うと馬鹿げている、現にそんな感じなのだが)のための手持ちではない、のはいうまでもなく。俳優が趣味ではなかった、そう思いたい。興味の持てる俳優が演じていればまた違ったのだろう。萩原健一 『青春の蹉跌』(1974年、東宝、監督:神代辰巳)24歳、『アフリカの光』(1975年、東宝、監督:神代辰巳)25歳、池松壮亮 今作品28歳。これらの比較は、果てしなく酷だが。桃井かおりと蒼井優...うん、やっぱり後者の人々にわたしはまったく興味がない。後者の人々は身体ではなく生命がスベっている、それは映画俳優として才能がないと言いきってしまって差し支えないだろう、このような人々は根源的には、非中枢的なキャメラの知覚そのものが、その人々を愛さないだろうから。前半、金魚のくだりと、嵐の海、最後の非常階段での肉弾戦、この映画が言う「喧嘩」なるものは見ものだった、そこはおもしろかったとだけは言っておこう。映画は、この程度でいい。あと小野花梨(蒼井の妹役)がまだいたことはよかった。

私はホアキンファンで、彼が好きだったが、監督名もあり『ジョーカー』は観ないだろう。おそらく俳優に関して、今作と同様の感想を持つだろうし、友人のいくつかのショット分析を口頭で聞くだけで十分であろう。このような映画が、真っ二つに意見が分かれるのもよく分かる気はする。(というか、何年かにいつもあるけどね...)しかし行くか、どうしよう。なんてつまらないだ。
harunoma

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