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戦場でワルツをのummidoriのネタバレレビュー・内容・結末

戦場でワルツを(2008年製作の映画)
4.6

このレビューはネタバレを含みます

 この映画は、イスラエル人の監督による、「全編アニメのドキュメンタリー映画」である。話の流れは以下のようになっている。イスラエルは1982年に勃発したレバノン戦争に参戦した。その当時、監督のアリ・フォルマンはイスラエル軍の兵士としてこれに参加していた。よく知られている事実として、イスラエルは国民皆兵の原則の下に徴兵制を実施している国だということがある。アリ・フォルマンは、確かにイスラエルの兵士としてこの戦争に参加していたはずなのだが、戦争のことをほとんど思い出せなくなっていることに気づく。そこで、当時一緒に兵役についていた「戦友」たちを一人ひとり訪ねて、戦地レバノンで何があったのかということをインタビューすることにした。
このインタビューは、吹き替えで聞くと気が付かないのだが、すべて実際のインタビューの音声である。その実際の音声に後からアニメーションが付けられているのだ。だから、戦地の具体的な回想に話が進むと、シームレスにアニメーションが戦地のことを描き始める。
昔の仲間たちに一人ひとりインタビューをしていくうちに、少しずつフォルマンは戦地でなにがあったのか思い出していくのだが、このインタビューを聴いているうちに、私は不思議なことに気付いた。具体的な戦場のことを話すひとがあまりいないのだ。フォルマンはまさにそのことが知りたくて聞いているのに。戦地に向かう船の中で眠っているときに見た奇妙な夢のことを話し始める人がいたり、戦闘が始まるまえの朝の朝食について話したり。戦地のことを話す場合にも、全く具体性を欠いた話をする。「わけも分からず」やたらめったら銃を乱射した話や、「無我夢中で」銃を撃った話。どの人物も、具体的に当時なにを思っていたか、考えていたか、ということを曖昧なままに話すのだ。
そのうち、フォルマンのインタビューは、なぜ彼が記憶を失ったのか、という核心へと近づいていく。レバノン領内、パレスチナ難民のキャンプが集中している地域で、フォルマンが「忘れていたかったこと」は起こった。その地域はイスラエル軍が支援していたレバノンのキリスト教原理主義の武装勢力“ファランヘ党”の民兵たちが支配していた。1982年9月16日の夜、フォルマンのいる部隊は町に照明弾を打ち込む命令を受けた。もちろんフォルマンも命令通りに暗くなった町を明るく照らすための照明弾を発射する任務をこなした。
その翌朝、フォルマンは町で何が起こっていたか、ということを目にすることになる。無数のパレスチナ難民の死体が町中に散乱していたのである。イスラエル軍が支援するなか、ファランヘ党の民兵たちが、夜中にパレスチナ難民の虐殺を行っていたのだ。フォルマンが「忘れていた」ことの中核はこれだったのだ。
フォルマンはインタビューのなかで、この「虐殺」という事件をほかならぬユダヤ人たちが行ったことをほのめかす。私も、まさにその点に強い印象をもった。映画の中で、一つだけ強調されているフレーズがあった。「俺たちは過去を忘れる」「でも過去は俺たちを忘れない」。フォルマンや彼の友人たちは1982年当時20代である。彼らの親の世代、祖父母の世代はいまだにユダヤ人に対するホロコーストの記憶を色濃く残しているのだ。フォルマンは、イスラエル軍に対して両手を挙げるパレスチナ人の男の子の姿を見て、ドイツ軍に対して両手を挙げるユダヤ人の男の子の姿をオーバーラップさせる。彼が忘れたかったことはいったい何なのだろうか。たんにトラウマ的な経験だったから、という言葉では表現しえない機微が存在するように思える。イスラエルという国、ユダヤ人という人々が背負う歴史と、イスラエル軍が起こした実際の虐殺という事件、そして「徴兵されて、意図したのではなく」そこにいた青年との間に奇妙な歪んだつながりを生じてしまって、その結果として彼の記憶が失われたのか。
そして、映画のいちばん最後。私たちはフォルマンの記憶喪失を追体験する。私たちの世界はアニメーションだったのか。
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