湯呑

イン・ザ・ハイツの湯呑のレビュー・感想・評価

イン・ザ・ハイツ(2021年製作の映画)
4.7
賞レースを総ナメし空前の大ヒットを記録したブロードウェイ・ミュージカル『ハミルトン』のクリエイターであるリン=マニュエル・ミランダの初期作『イン・ザ・ハイツ』が『クレイジー・リッチ!』のジョン・M・チュウによって映画化された。ニューヨークのワシントンハイツで暮らすラテン系移民の姿を歌と踊りで描いた本作の監督として、これほどの適任はいないだろう。シンガポールを舞台にしたロマンティック・コメディ『クレイジーリッチ!』はキャストも製作チームもオールアジア系という異例の布陣が話題を呼び、白人の出ない映画はヒットしない、という固定観念を打ち破って大ヒットを記録した。現実の社会が抱えている多様性をいかにして作品に落とし込んでいくか、という課題を突き付けられている現在のハリウッドにおいて、最も注目すべき映画作家の1人だと言えよう。
ただ、ジョン・M・チュウという人は作品を通じ人種差別に対して怒りをぶつける、といった社会派タイプではなく、もっと商業主義的というか、とにかく誰が観ても楽しい映画を作る事しか頭にないのだと思う。今どき珍しいくらいにウェルメイドなストーリーとカラフルでポップな映像、ゴージャスでハイクオリティなサウンドを組み合わせたとにかくアッパーな作風がこの人の持ち味である。もちろん、社会的マイノリティに属している人がただ楽しいだけの映画を作ったり観たりしちゃいけない筈もなく、ジョン・M・チュウは自分の生まれ育ったコミュニティをバックボーンとして、エンターテインメントを作っただけの話なのだ。『クレイジーリッチ!』の様な作品が重要な意義を持つ作品として受け止められた事こそが、ハリウッドにはびこる白人至上主義がいかに根深いものであったかを逆説的に証明している。
という訳で、公開前から大きな期待を寄せられ批評家からの評価も上々だった本作だが、一方でワシントンハイツの実態を反映していない、という厳しい批判も寄せられている様だ。問題点は主に2つ。アフロ・ラテン系移民の多く住むコミュニティを舞台としながら、実際にはアフロ・ラテン系の俳優がほとんど登場しない、というカラーリズムに基づくキャスティングへの不信がひとつ。もうひとつは、女性キャラクターに対するステレオタイプでセクシュアルな描写である。本作に登場するニーナやヴァネッサといったキャラクターや、美容院に集う女性たちは、異国の女性に対して男性が抱きがちなエキゾチックな欲望の反映にしか過ぎないのではないか、という事だろう。こうした批判に対し、リン=マニュエル・ミランダは自身のインスタグラムで謝罪をするに至っている。
キャスティングの偏りについてはハリウッドでは当たり前というか、例えばフランス革命の映画をアメリカ人俳優だけで撮ってしまう、といったいい加減さ(別に悪い事だとは思わないが)は昔からあった訳だ。女性に対する画一的な描き方は言わずもがな、要するにハリウッド映画の抱える問題がここでも繰り返されているのである。これは、ジョン・M・チュウという監督が極めてハリウッド的感性の持ち主である事と無関係ではないだろう。スタンリー・ドーネンの『恋愛準決勝戦』を模したダンスシーンが挿入されている事からも分かるとおり、本作は最初からハリウッド・ミュージカルの系譜に連なろうという明確な意思が見て取れる。
従って、『イン・ザ・ハイツ』に対する批判は「ニューヨーク・ワシントンハイツで暮らすラテン系移民たちの姿を描いたミュージカル」という点に人々が過剰に意味付けしたが故のものだと言えよう。確かに、劇中では未成年の不法移民に対する保護政策「ドリーム法」の撤廃に人々が抗議するシーンが描かれている様に、人種差別を許容し不平等を生み出し続けるアメリカ社会への批判的な眼差しが込められてはいる。しかし、結局のところ本作はハリウッド映画が語り続けてきた「アメリカン・ドリーム」の神話のバリエーションに回収されてしまう。それは、革新的な製作体制で作られた『クレイジー・リッチ!』が典型的な「シンデレラ・ストーリー」であったのと同じである。その神話を信じた者たちが、新天地を求めてアメリカへやって来る。移民たちに自国を乗っ取られると思い込んだ排外主義者たちが奴らを追い出せと騒ぎ立てる。移民をめぐる問題は様々な軋轢や格差や分断を生んでいるのに、ハリウッドは未だに「アメリカン・ドリーム」の神話を再生産し続けているのだ。
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