となりの

ドラゴンクエスト ユア・ストーリーのとなりののレビュー・感想・評価

3.0
色々と言われていたけど、思いのほかわるくなかった。結末というよりも叙述トリックの方が重要で、そのための伏線は張られているし、さいごの見せ方も親切だ。

まず、あまりに完成されているがゆえにさまざまな制約があるなかで、「ドラクエ」をちゃんと映像化していて、とくにリュカのキャラデザは佐藤健がほどよく透けて見えるもので、上手いと思う。

キャラの演技にかんしては、典型的な誇張された身振り(近年のディズニー的と言っていいだろうか)で、よくもわるくもオーバーでコミカル。
これは、本作の脚本と演出上仕方ないだろうけど、もっとシリアスだったらどうなっていただろうかと思うところもある。が、世界観や視聴者層を考えれば適当だろうし、テーマパーク的に「ドラクエ」が描かれているのは成功だろう。

そのうえで、やはり難しいところが多い作品だと思うが、それはひとえにテレビゲームの映像化だという点に尽きると思う。
つまり、本作が狙っているのは、かつてドラクエをプレイしたような体験を、映像で体験させることだが、それは原理上不可能である。

そもそもテレビゲームでは、設定された状況に対して、プレイヤーが応答・行動することで物語が展開・体験される。
つまり、インタラクション性が、ゲームに特有の間を構成し、その間に物語が宿る。

しかしながら、本作は、当然のことながらインタラクション性はなく、単線的かつ短絡的なイベントのシーケンスが提示される。リュカは、次々に与えられる状況に対して反射的に対応、行動するのみである。
ここには物語があるというよりも、イベントがあるのみで、ゲームのようには没入できない。
(ただし、「リュカ」にとってはそうではない)

要するに、作中の人物と観客が決定的に切り離されているにもかかわらず、同じように物語を体験するよう求める点に強い負荷がある。というより、構造上の無理がある。
結局、リュカにとってのストーリーなのであって、観客にとってのMY STORYではない。その意味で、Your Storyというのは正しい。
二つの物語が重なるとすれば、私たちがドラクエをプレイしたときの記憶に訴えるしかないだろう。だが、映画としては記憶を撮ることを放棄しているように思われる
(その意味で、ゲレゲレとの再開で、記憶の依代となるリボンが現れないのは象徴的だ)

また、終始音楽が流れているのは、ドラクエ的だが、それが昨今のCGと合わさるとダイジェスト的にしか見えないというのは、ゲーム音楽とは何かを考えるうえで示唆的だと思う。

しかし、「自己暗示」を解くことのできたフローラとは何者だったのだろうか。
かのじょによって、わずかに、リュカは迷い、間が生じる。
あくまでプログラムされたものでしかない世界で、プレイする主体性を回復し、物語を紡ぎなおすという決定的な役割を担っているように思えるが。
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