パイルD3

システム・クラッシャー/システム・クラッシャー 家に帰りたいのパイルD3のレビュー・感想・評価

4.5
幼児期に受けた父親からの虐待によるトラウマから、異常にキレやすく感情の自制が出来ない特殊障害を持つ9歳の少女(ヘレナ・ツェンゲル)が主人公
彼女があたり構わず飛び散らせる凶暴なエネルギーの衝撃は並大抵ではない…

《救い》
寄り添うとか、同情とか、救済とか、献身とか、親身とか、理解とか…腫れものに触るように接することが必要な場面は日常の中にはある

でも、本当にそんなことって人が人に対して出来るのか?
人は絆と口にはするが、それも一方的な主観に過ぎず、ただの思い込みや思い上がりじゃないのか?
相手がどう受け取るかがすべてじゃないのか?

…そう考えずにはいられなくなる作品

寄り添うことが、救済につながると確信していた既製の良識をあっさり超えた領域を見せる

《母親》
ドラマの中で、人間への猜疑心を最も駆り立てるのが、何とも彼女の母親である

母子家庭で、仕事も不安定、殺伐とした環境で3人の子供を育てる母親の揺らぐ心情
娘からの絶大なる信用を一手に引き受けている存在なのだが、肉親ではあっても限界があることを見せるシーンが出てくる
言い換えれば、親の責任回避と娘への拒否姿勢として弱音を吐く
まがりなりにも親の姿として許し難いことなのだが、“じゃあ、あんたならどうするっていうんだ?“と、観る者の傍観者意識にド直球を投げ込んでくる…


【システム・クラッシャー】

ケアホームをたらい回しにされるほど手に負えない問題児をシステム・クラッシャーと呼ぶらしい
病院からは鎮静薬の常用を指示され、本人も移送され続ける状況を知りながらも、行く先々で、ある瞬間適応力がゼロになる

《感情コントロール》
そこにあるのは“感情“という、最もとらえどころのない人間の内なる領域で、他人が安易に手出しするにはリスクを伴う
しかも単にエスカレートした感情の緩和と言うより、この少女とまともに向き合うのは、山火事を鎮火するようなものである

《多角視点》
ひとつ言えるのは、
主人公に気持ちを置いて追いかけるドラマでは無いということ 

一切容赦のない、ある意味視点を多角的に見せる手法は、ノラ・フィングシャイト監督が専門とするドキュメンタリーとの距離感の方が近く、ただ劇映画に仕立てたのは、この題材にドラマ性を感じたからに違いない

どこまでも諦めず未来を案じて最善策を求め続けるケースワーカーのバファネさん(ガブリエラ=マリア・シュマイデ)、ミニキャンプのような山中での共同生活に活路を見出そうとする通学付添役のミヒャ(アルブレヒト・シュッフ)をはじめ、熱心なグループホームの職員たちなど取り巻く人々のあらゆる視点の中に、自分の視点に近く、部分的でも当てはまるピースがあり、そこに気持ちが動くような作りになっている

素人にはどこから手をつけたらいいのかわからないことでも、医療をはじめ、あらゆる接触方法で、道を拓こうと苦心惨憺しながら力を尽くし、日夜従事する人たちがいることには感嘆するしかない

作品に解答が無いわけではなく、“ひたすら受け入れる“、“どこまでも続く“ものがあるということが、作り手が提示する解答でもあると思う

《カラーリング》
主人公の少女のジャンパー、パーカー、スニーカー、部屋のインテリア、施設の庭に置かれた子供用カート、遊具などに意識的に使われている赤、そしてピンクのカラーリング
この色のイメージは見終えた後、しばらく頭から離れない


不謹慎ながら、全く中身は違うが「エクソシスト」の悪魔に憑依された少女リーガンと、母親、神父たちの関係が重なってきた




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